バレンシアの春-教育の権利を巡る学生の闘い

Spanish Revolution 2012, Uncategorized タグと , への Quatre Gats による投稿 (2012/02/21)

昨日2月20日バレンシアで高校生が中心の教育予算の削減反対デモに対して、国家警察の反騒乱部隊が暴力的に介入し、未成年を5人を含む25人の逮捕者を出す事件が起こりました。

625億ユーロの負債を抱えるバレンシアでは、思い切った緊縮政策によって教育関連予算が大幅に削減され、教育システムが麻痺する事態になっています。約1200校の公立学校は8ヶ月前から補助金の受け取っておらず、音楽学校に対する補助金の削減は54パーセントに達し、大学はすでに2012年度の限度である8000万ユーロの負債を抱えて…。その結果、電気代の支払いが滞り暖房がつけられないどころか、トイレットペーパーやコピー紙がないといった状況の学校もあるそうです。

そうした状況の中、1月21日には教育関連費用の未払いに対する抗議のデモが行われ、1万2000人以上が参加しました。この日をきっかけに、教育を受ける権利を求めて校門に立つという活動を始めた高校があります。それが今回逮捕者を出したルイス・ビベス高等学校でした。彼らの抗議活動を巡る状況は先週の木曜日2月16日境に大きく変わります。公道に出て交通を遮断したデモに対して国家警察が介入、17歳の学生を逮捕して警察署に連行するという出来事が起こったのです。

その翌日17日にこの逮捕への抗議集会が行われると、警察はまたもや介入し10人の逮捕者と17人の負傷者を出します。こうして状況が日増しに緊迫の度合いを増す中で、昨日の夕方さらに深刻な事態を迎えました。学校を出発してスペイン広場に向かうデモ隊に対して、25台のバンで待機していた反騒乱部隊が暴力的に介入、デモを力づくで解散させたのです。

平和にデモ活動を行う人々に対する警察の暴力行使は、動画や写真と共に『Primavera Valencianaバレンシアの春』の名前で瞬く間にネット上で広まり、マドリッドやバルセロナなどスペイン各地で抗議行動が呼びかけられます。バレンシア大学歴史学部には400人の学生が立て篭って、バレンシアの中央政府代表パウラ・サンチェス・デ・レオンの引責辞任を要求しました。

そして、一夜明けた今日21日、警察の暴力に対する抗議がスペイン各地で行われました。バレンシアの中心部に集まった人々が手にしていたのは学生の武器である本。警察の警棒に対する彼らからの答えです。

Publico紙より)

中央政府代表サンチェス・デ・レオンは「警察の行き過ぎ」や「権利の乱用」がなかったの調査を命じた一方で、国家警察はバルセロナ、セビリャ、バヤドリッドから150人を増員したとも報道されています。明日も大規模な抗議集会が予定されており、まだまだ緊迫した状況は続きそうです。

ちなみに、スペインの警察組織は自治州によって異なります。例えば5月のカタルーニャ広場の事件において、デモ隊に介入したのはカタルーニャ州警察で、その責任者は州内務大臣のフェリプ・プッチでした。ところが、バレンシア州には自前の警察機関がないために、今回介入を行ったのは中央政府の管轄下にある国家警察。それで、バレンシア中央政府代表が責任者ということになるのです。

さらには、アルベルト・ファブラが率いるバレンシア州政府も中央政府と同じPP国民党の政府。今回のバレンシアの一件によって、ラホイの国民党政府に対する国民の目が、さらに厳しくなったことは間違いないでしょう。

F19-労働法改正の大きな波紋

Spanish Revolution 2012 タグと , への Quatre Gats による投稿 (2012/02/20)

マリアノ・ラホイ率いるPP国民党が政権を取ってから2ヶ月あまり。ついに、新政権に対する抗議活動がスペイン全土に広がりました。2月19日日曜日に57都市で150万人を動員した今回のデモは、2010年9月29日のゼネストを越える近年最大規模だとか(『La ciudadanía abarrota las calles contra la reforma laboral』参照)。

NO a la reforma laboral !(労働法改正にNO!)』というスローガンで、今回のデモを呼びかけたのはCCOO労働者委員会連合UGT労働総同盟というスペインの二大労働組合。CCOOの発表で40万人が参加したというバルセロナのデモ(内務省によると3万人)には、彼らを先頭に左派政党(PSCカタルーニャ社会労働党、 ERCカタルーニャ共和主義左派、ICV y EUiAと緑の党-左派連合)、CGTスペイン労働総同盟、15-Mの流れを汲む組織…と、前回1月28日のデモに続いて多様な組織を広範に取り込むデモとなりました。

カタルーニャCCOO公式サイトより)

今回の大規模デモのきっかけとなったのは、2月10日に可決された労働法の改正案でした。『解雇の値下げ』と呼ばれた今回の法改正の主な点をご紹介します。

中小企業向けの解雇が自由な新契約形態

従業員数50人に満たない企業は、1年の試験期間付の期限なし契約を結ぶことが可能となる。16歳から30歳の長期失業者に対してこの契約を行うと、年間最大1300ユーロを受け取ることになる。また、3ヶ月間失業保険を受給していた失業者を雇用した場合、企業ぶは50パーセントの控除が適用される。控除のパーセンテージは、雇用された者が受給予定であった残りの失業保険の金額に対してのものとなる。

給与を下げるための労働協約への攻撃

継続する二つの4半期(6ヶ月)に渡って『収益もしくは売上げ』に継続的な減少が見られた場合に、企業側は労働協約で合意した給与、就業時間、労働日数について変更 を提案することができる。合意がなされない場合には、外部の調停機関によって解決されることになる(第14条)。改正法第12条によって、調停に訴える必要なしでもこうした変更が可能になる。企業は『競争力や生産性または、企業内の技術的な組織編成や業務内容といった理由によって』、給与、就業時間、労働日数を変更することができる。その一方で、団体協約は効力を失ってから2年が経過すると、効果を失うこととなる。新たな協約が結ばれるまで古い協約の効力を延長させてきた、いわゆる超法規効力が消滅することになる。

客観的解雇が拡大 – 33日分の補償金でさようなら

企業が継続する二つの4半期(6ヶ月)に渡って『収益もしくは売上げ』に継続的な減少を示した場合、(期限なし契約の場合20日×勤務年数の補償金によって)解雇は客観性のあるものとされる。新しい無期限契約は全て、解雇が不当とされた場合も33日間、24ヶ月分の補償金が最大となる。すでに期限なし契約を有する者は、二つの期間に分けて計算され、改正法が発行する2月11日までは一年あたり45日、その日付以降は一年あたり33日で補償金の計算が行われる。

自由な団体解雇

企業は行政機関の同意を得る必要なしに生産雇用調整(ERE)を申請することができる。しかしながら、省は申し立てられた生産雇用調整のうち98パーセントを承認していた現状では、この制限はすでに有名無実となっていた。

(Diagonal紙「Cosas que la reforma laboral no te dejará hacer」参照)

失業率が20パーセントを越えるスペインにおいて、新政府が最優先で取り組まなければならないのが失業対策です。そこで「雇用を創出するため」という理由で今回の労働法改正が行われたのですが、蓋を開けてみたらその内容は雇用を創出するどころか、解雇を促進するものとなっていました。すでに、この改正によって現在530万人の失業者が600万人まで増加するという試算もされています。また、それ以外の点も雇用者側にとって有利で、労働者側にとって不利な改正であるのも明らかです。

この抗議を受けても、現在のところラホイ首相は「この労働法改正は、スペインにとって正しく、必要で、良いものである」という主張を変えていません。スペインの人々の抗議活動はまだまだ続きそうです。

ステファン・エセル・インタビュー2

Spanish Revolution 2012 タグと , への Quatre Gats による投稿 (2012/02/16)

見覚えのある写真に目が止まり手にした一冊の本。

Marie-Françoise Petuil 著『Helen Hessel, la mujer que amó a Jules y a Jim(エレン・エセル、ジュールとジムを愛した女)』と題された本の帯を読んで驚きました。この「ジュールとジム」と言うのはフランソワ・トリュフォーの映画『突然炎のごとく ジュールとジム』の登場人物のことで、ジャンヌ・モローが演じたカトリーヌのモデルはなんとステファン・エセルの母親だったんです。

画家、ジャーナリスト、作家、ミューズ、フェミニスト、レジスタンス、翻訳家、哲学者…と多くの顔を持つHelen Hesselエレン・エセルは、ジュールのモデルであるエセルの父親の作家Fran Hesselフラン・エセルと2回結婚して、2回離婚。ジムのモデルとなった作家Henri-Pierre Rochéアンリ=ピエール・ロシェと15年に渡る婚外関係を続けたという、型破りの女性だったとか。

というわけで、ちょっと間が空いてしまいましたが、ステファン・エセルのインタビューの続きをご紹介します。前半はこちらからどうぞ。

-憤慨という言葉が持つニュアンスに戻りましょう。その感情があなたを暴力的な道へ導いた時代がありました。心の中では何を感じていましたか?

私は暴力的な人間ではありません。人々を暴力へと導くものを理解することはできますが、私にとっては納得できるものではありません。私の最初の憤慨には、ナチスという名前がありました。フランコやムッソリーニのファシズム、さらにスターリンに関しては1935年に粛清を行っているというニュースが入ってきていました。全体主義です。その上、私たちには閉鎖的な共産主義者と対称をなすスペイン人共和主義者というお手本がありました。

私は常に自分は民主主義者だと考えてきましたから、民主主義のシステムの危機に私は憤慨したのです。しかしながら、疑いも抱いていました。第一次世界大戦が甚大な被害を出したことで、万策尽きるまでは再び紛争に突入するべきではないと、私たちの多くは考えるようになっていたのです。異なる国々の人々と交渉し、約束することをまず行うべきだということ。しかし、こうした人々(ナチスや全体主義者たち)が望んでいる唯一のことは、暴力的なやり方でヨーロッパを征服することだということが明らかになりました。そのときになって初めて、私は武力によって彼らに立ち向かうべきだと確信しました。

-では、その憤慨は物質的に、今現在あなたが感じている憤慨と比較しうるものでしょうか?

異なります。当時の私は若く、闘志がありました。時期が訪れ、立ち上がり彼らに立ち向かうことが必要だということがわかったときに、私の中に闘いたいという欲望が溢れて出してきたのです。迷うことなく軍隊に入隊しました。そして、ドイツと停戦が結ばれると、私は再び憤慨しました。それは不名誉なことで、イギリスに対する背信であると感じたからです。私は反対でした。容認することができませんでした。私には何ができるだろうか? フランスで戦う? 国外でド・ゴールに加わる? それが私が行ったことでした。

-あなたが彼(ド・ゴール)と親密な関係にあったと言う人もいます。

それは違います。私はとても若く、低い階級の士官でした。しかし、ロンドンに着くと内輪の夕食会を共にするという光栄に預かりました。彼が私を招待してくれたのです。当時のフランスで非常に威信のあった高等師範学校の若い学生が、自分についてどう思っているのか知りたがっていました。そのレベルにいる学生たちが自分についてどんな意見を抱いてるかを知りたがっていたのです。

少なくとも幸運なことに、ド・ゴールもまた憤慨していました。フランス人の大部分はそうではありませんでしたが。世界中に民主主義の旗を掲げた国において、あれは全く奇妙なことでした…。何が起こったのでしょうか? フランスはあまりにもひどく打ちのめされていたのです。1940年5月から6月の間に起こったことは、歴史上とても珍しいものでした。それは単なる軍事的勝利ではありません。それは屈辱的な大敗北で、その中で人々は自分の家から思いも寄らなかった場所へ逃げなければならなかったのです。多くの人々にとって、停戦は休息に見えたのです。平和は多くの人々の心を惑わしました。しかし、あれは平和ではなかったのです。

-それは屈辱だったのですか?

さらに他の要因もありました。ソ連の脅威がブルジョワ階級を恐怖に陥れていたのです。彼らはファシズムが行き過ぎないうちは、彼らの生活スタイルに危害を加えることはないと考えていました。ナチスは誰よりも、共産主義者に対するブレーキを保障するものだったのです。

-それから、あなたの個人的なケースでは、新たに別の憤慨がやって来ました。

ゲシュタポです!

-そこであなたの身体そのものが危険に晒されました。逮捕はどんな風でしたか?

逮捕されたときには、生き残れないだろうと確信していました。重大な犯罪容疑で逮捕されたのですから。彼らは私がロンドンにやってきたのはレジスタンスを強化するためだと知っていました。

-さらに、あなたはユダヤ人でした。

そのことを彼らは知りませんでした。私についてあまり知らなかったです。もし、私の父がベルリンから移民したユダヤ人だということに気付いていたら、別の方法で私を扱っていたことでしょう。しかし、彼らは私を高いレベルのスパイのように扱いました。それで、あなたならスパイに何をしますか? 明白なことですが、彼から情報を得ようとするでしょう。

-拷問によって?

その通りです。浴槽に私を沈めました。しかし、私に誰のことも密告させることはできませんでした。そして、そのことに私は満足していました。その後で、私は死刑を宣告されました。幸運にも裁判の進みが遅く、私はブーヘンヴァルト(強制収容所)に収容されることになります。そこに私を絞首刑にするという命令が届いたのですが、すでに遅かったのです。そのときはもう私は、誰にも気がつかれることなく、すでに死亡した人の身元に変えることに成功していたのですから。その人物が死刑宣告を受けていなかったために、私は自由の身になりました。

-そうした日々の中では、憤慨は恐怖に変化していたのではないかと想像するのですが。

正確にはそうではありません。祖国を愛する若者しか感じることができない何かに変わりました。自分の義務を全うし、祖国のために犠牲になったと信じる高慢な確信です。

-英雄だと!

(笑)エピソードを一つ話しましょう。逮捕されたとき、私は紙切れを手にして、暗記していたシェイクスピアのソネットを書いたのです。『No longer morn for me when I am dead…』意味は、もし明日銃殺されるのであれば、妻に知って欲しい。私は彼女が喪に服すことではなく、幸せでいることを願っていると。全く馬鹿げたことです。こうしたことは、いつも馬鹿げたものになってしまいます。

-死と向き合う気高い方法の一つではないでしょうか。

人生は皮肉に満ち溢れています。

-もしそのときに93歳を迎えると言われていたら…

全くその通りですよ! 私に次の憤慨が訪れたのは強制収容所の中でした。戦争が暴力的なことは知っていました。しかし、人類がこれほどの残忍になれると想像したことはありませんでした。

-英雄と感じることから別の状況へ。犠牲者という状況です。

個人的というだけではなく、共同体の一部としての犠牲です。なぜなら、私個人的には幸運でした。死刑を宣告された36人のグループの中で、私は助かりました。私とあと2人が助かったのです。私は別の収容所に送られて、逃亡しました。逃亡に成功したものの、再び捕らえられてドーラに収容されました。そこで私を絞首刑にするか、25回の鞭打ち刑にするか議論が行われたのです。しかし、私はどちらからも免れました。というのも、私を尋問した士官に対してこう言ったのです。「勇敢なあなたであれば、私のように脱走を試みただろうと確信しています。私はそれを実行して失敗しましたが、あなたたちを傷つけたわけではありません。」こうしたことをすべて、母語であるドイツ語で説明したのです。もし彼らの言語を私が話さなかったら、おそらく私を刑から救い出すことは誰にもできなかったでしょう。

-あなたの人生には楽しいときもありました。人権宣言の起草に立ち会ったときのように。フランス、米国、ソ連、サウジアラビアのように全く異なる国々が共通の見解において同意する。大変なことでしたか?

現場からの声として、大変だったと証言します。1948年に成し遂げていなければ、不可能だったでしょう。もしそれ以降であったなら、その後に緊張状態が起こったことで、実現不可能となっていたでしょう。その歴史的瞬間にソ連は棄権し、アラブも同じでした。これによって、可決が可能になったのです。絶好の機会でした。人類の歴史にとって野心的なテキストです。

-その瞬間、あなたの憤慨は希望へと歩を進めたと思うのですが。

そうですね。その瞬間は本物の、真実の瞬間であり、戦争後の国家間の理解においての大きな希望でした。あのテキストが世界の大部分を自由と正義へ向かう正しいルートに乗せるだろうと、私たちは確信していました。しかし、長くは続きませんでした。その後に別の感情がやってきたからです。第三次大戦という危機が生じるのではという不安でした。それは今までの戦争とは異なり、核の大惨事と共にやって来る。世界は二つの恐怖を体験していました。ホロコーストとヒロシマです。そしてこのことが、私たちに巨大な恐怖に陥れたのです。それは複雑で不安定な世界でした。もし国連が人権を敬い発展させるプログラムにおいて成果を得ることができなければ、すべてが崩壊するように感じていました。

-今現在、当時に感じた楽観的な見方が、その一部でも残っていますか?

私はそれでもまだ、ゆっくりと小さな歩みの前進が、進んだり戻ったりしながら、続いていくだろうと信じています。20世紀の最後の10年間は先行きがとても楽しみなものでした。ベルリンの壁の崩壊以降、私たちは新しい時代に入ったと確信を持っていました。2000年千年紀にコフィ・アナン代表の下で合意に達しました。ところが、ツインタワーが崩壊して…。私たちは21世紀をとてもまずい具合に始めました。

-テロの脅威とともに。しかし、またブッシュ、ブレア、アスナールたちの側からの国際ルールの破棄もありました。あれは世界秩序にとって何を意味するとお考えですか?

あれは現在の私の憤慨の一部です。実際、私たちが大きく前進していることに人々が気がついていたときに、それらの指導者たちは急ブレーキをかけて、間違った方向に私たちを向かわせたのですから。

-あれは実際のところ変装したファシズムの一種にすぎない、民主主義の雑種に対する軽視だったのではないでしょうか?

もちろんです。20世紀末に形作られ始めた新世界秩序において、尊重される基本的なルールのうちの一つが国際的な権利でした。それを壊すことは、さらに悪い状況に入り込むことを意味しました。

-怠慢で無知な統治者たちに対して、私たちには何ができるのでしょうか?

憤慨することです! 私たちは別の統治者と、そしてまた、もっと品位のある人々を掬い上げる社会を必要としてるのです。私たちは未熟な不安感に陥ったり、政治家はみんな同じだと考えてはなりません。なぜならそうではないからです。怒りと無関心は私たちをどこにも連れて行ってくれません。

-あなたの人生には、もう一つ継続してきた憤慨があります。パレスチナです。

またもや、国際ルールの破棄、残虐性の押しつけ。ガザとヨルダンの状況には、私が人生において最も我慢のならないものが全て集まっています。強制収容所で感じたのに近い憤慨です。私はイスラエル国家を大変評価しています。しかし、その政府が私が人生において耐え忍ばなければならなかった最悪の政府と似たような方法で振舞っているときに、私にはそれを容認することはできません。私は反対します。米国やEU、現在の状況に関わりを持つ企業の許可の下で、彼らが行っている権力乱用を告発します。気候変動について合意を結ぶことができないでいることに関しても、同じように感じています。今はオバマがビン・ラディンの殺害で人気を得ている状況で、何かを進めてくれることを願っています。

-ところで、その件に関してあなたの意見は?

そうですね。彼がいなくなったことついて、喜ばしいと思っています。驚くべき力を持った殺人者でした。とりわけ、イスラムに関して世界中に忌まわしいイメージを与えましたから。事実はそうではありません。この数ヶ月間でアラブの国々の人々が起こした反乱は、彼らも(私たちと)共通の方向性を望んでいるのだということを、私たちに知らしめる役目を果たしました。しかし、ビン・ラディンの話に戻ると、別の方法、逮捕と裁判がが望ましかったでしょう。

-反移民政策の脅威によってヨーロッパはどこに行くのでしょうか?

それこそが私の本の目的です。人々に価値のある新しい挑戦に立ち向かうことを自覚させること。危機にあるのは私たちの身近な人々だけではありません。私たちの世界が日増しに、ネオコンや環境の扱い方を知らない人々によって脅威にさらされているのです。行動する誓いを信じることが鍵です。私たちは敗北を運命付けられているのではないのですから。しかし、敗北を防ぐためには一歩前に進まなければなりません。

2011.05.29 Hessel: “La indignación debe ir seguida de compromiso”

28G―カタルーニャから世界を変える

Uncategorized タグと , への Quatre Gats による投稿 (2012/02/03)

今回『Spanish Revolution 2012』のカテゴリーを新設し、今年アップした関連記事はこちらに移動しました。合せて、昨年度の分は『Spanish Revolution 2011』としました。

ATTAC Acordemのサイトより)

先週土曜日1月28日にバルセロナで再び大規模なデモがありました。シベリアからの寒波の襲来に加えて、直前まで雨という悪条件だったにもかかわらず、再び通りに飛び出した人々の数は主催者側の発表で15万人(ちなみに警察側の発表では2万人)。カタルーニャ広場から州議会があるシウタデリャ公園まで怒りの行進を行いました。

アルトゥール・マス率いるCiU集中と統一党の政権は、11月の総選挙で議席を増やしたことに気を良くして、特に医療や教育分野での削減を行う緊縮政策を押し進めてきました。今年に入ってからは、公共料金の値上げが相次ぎ、生活は苦しくなる一方です。さらには、緊縮政策の影響で景気はさらに悪化、失業率も上昇中。

という背景から、今回のデモはカタルーニャの現政権への抗議活動として報道されましたが、実は、その裏にもっと大きな目標がありました。

デモ呼びかけのポスターを見るとわかるように、デモを組織したのはFSCatことFórum Social Cataláカタルーニャ社会フォーラム。FSCatは、毎年スイスのダボスで行われる世界経済フォーラムに対抗して生まれたFórum Social Mundial世界社会フォーラム(WSF)が、2008年に呼びかけた国際連帯行動に応えるものとして生まれた組織です。つまりこのデモは、ブラジルのポルトアレグレで開催中の世界社会フォーラムに連動して企画されたものだったのです。

そのため、今回のデモは今までとは少し様子が違いました。15-M運動は政党や労働組合といった既存の組織が無力化していることを批判するものでもあったので、15-M運動が呼びかけるデモにはこうした組織の姿を見かけることはありませんでした。しかし、今回のデモにはPSCカタルーニャ社会労働党、ERCカタルーニャ共和主義左派、ICVカタルーニャ緑の党といった野党や、UGT労働総同盟やCCOO労働者委員会連合といった労働組合も参加していました。その一方で、15Mの流れを汲むグループの姿も見られました。

今やバルセロナの抗議活動の顔となったArcadi Oliveresアルカディ・オリベレスが、デモの最終地点で読み上げた28Gマニフェストの翻訳をご紹介します。『Altre Món és Possible(もう一つの世界は可能だ)』とデモの裏のスローガンがはっきりと読み取れます。

Aturem les retallades! (削減を阻止しよう!)
No a la dictadura financiera(金融の独裁にNOを)

私たちは深刻なシステム危機の只中にいる。これは、銀行家と大企業の経営者たちの貪欲さと公資源を浪費-銀行の救済と豪勢な公共工事などによる-が引き起こした結果であり、新自由主義型資本主義とグローバリゼーションの最も残忍な顔を示すものだ。

経済危機が、私たちが暮らす福祉国家の不安定であること、民主主義的自由が不足していること、階層化に向かう社会が極めて不平等なことを示している。

彼らが提案する唯一の処方箋は新自由主義に沿ったものだ。社会費の削減と税率アップはいつも同じ人々に向けられている。巨大な富を持つ少数の家族や、巨大企業はいつものように除外され、税金逃れを続けているのだ。今やらなければならないことは、解決策を見つけることと、共通の利益に貢献することであるにもかかわらず。

カタルーニャでは、74万2千人以上が失業しており、5人に1人のカタルーニャ人が貧困にある。その一方で、極わずかな人々の手にしか届かない贅沢品の売り上げは新記録を達成した。病院は1フロア丸ごと閉鎖され、緊急医療サービスの窓口も閉鎖。医療センターは診察時間を短縮し、公共教育は完全に忘れ去られている。一時間毎に立ち退きを強いられる人がいて、最も貧しい人々が社会サービスから排除されている。さらには、リストラを行う一方で大企業団体は利益を増加させているのだ。

この数日間、スイスの都市ダボスの世界経済フォーラムには世界の最も豊かな人々が集まっている。その目的は、私たちにさらに多くの削減と公共サービスのさらなる縮小を押し付け続け、アラブの春や世界中で怒れる人々の動きを黙らせること。だからこそ、最も不利な立場にいる人々と私たちの声を聞かせるために、人々が通りを占拠することが緊急に必要とされている。今すぐに、最も豊かな人々の利益にしかならず、世界の人口の1パーセントに富を集め、国家や貧しい人々に対して巨大な権力を与えている新自由主義政策という舵を変えなければならないのだ。

私たちに銀行や投資家に救済に心を砕かせ、人々に非難を向ける経済や社会のモデルを変えなければならないのだ。最も富める人々のために、常に同じ人々を権力の座に就けておく、この不完全な民主主義を変えなければならない。

私たちが望んでいるのは、疎外や貧困、失業、立ち退き、汚職、人種差別、差別、男性の暴力といったものがないカタルーニャだ。私たちは、平和で連帯して、全ての人々が社会的権利を持つもっと公正な世界とカタルーニャを望んでいる。新しい世界を築くのは私たちの仕事だ。なぜなら私たちが真の多数派なのだから。なぜなら私たちは私たちの未来を決める権利があるのだから。私たちに提案を計画へと進めることができれば、私たちが一つになって声を上げれば、この変革は可能となるだろう。

今日、社会変革に関する提案を共同で作り上げていくプロセスとして、2012年カタルーニャ社会フォーラムが始まる。私たちと一緒に変革についての提案を示し、分かち合う人々や組織は誰でも大歓迎だ。

憤慨を行動に移そう。金融の独裁にはNO! 削減を阻止しよう。

もう一つの政策は可能だ! もう一つの経済が必要なのだ!

私たちの手で、もう一つのカタルーニャ、そしてもう一つの世界を可能にしょう!

2012年1月28日バルセロナ

FSCat公式サイトによると、2008年、2010年とWSFの枠組みの中で活動を行ってきたのですが、今回は経済危機真っ直中ということを鑑みて独自な活動も行っていくとのこと。El procés del Fòrum Social Català del 2012カタルーニャ社会フォーラムプロセス2012して、今後5月まで様々な活動が予定されています。

考えの違いを乗り越えて300を越える組織を纏め上げた28Gのデモ。今回のデモによって、カタルーニャの人々の動きは新しい局面に入ったようです。

ステファン・エセル・インタビュー1

Spanish Revolution 2011 タグと , への Quatre Gats による投稿 (2012/01/27)

先週2011年のベストセラーが発表されました。以前の記事でご紹介したStephane Hessel ステファン・エセル『Indignaos! (憤慨せよ!)』は、大ベストセラーとなったダイエット本『el método dukan(デュカン式)』に次いで2位にランクイン。ちなみに3位は『風の影』の著者カルロス・ルイス・サフォンの新作『 El prisionero del cielo(天空の囚人)』(1/17付Publico紙参照)。

この本がスペインで爆発的に売れ、15-Mの動きへと繋がって行った裏にあるのが、序文を寄せたスペイン人経済学者José Luis Sampedroホセ・ルイス・サンペドロの存在。「私も1917年に生まれた。私も憤慨している。私も戦争を生きた。私も独裁を耐え忍んだ」と始まる『私も』と題された序文によって、スペイン人は、ナチスへの仏レジスタンスとフランコ独裁政権での民主化要求運動を重ね合わせ、さらには経済危機で社会福祉が風前のともしびとなっている現実を目の当たりにして、エセルの言葉を自分たちへの呼びかけとして受けとめたのです。

そして、サンペドロはDemocracia Real Ya!(真の民主主義を今すぐに!)に賛同し、「スペインに民主主義は存在しない。人々よ、立ち上がれ」と自ら15-Mのデモ参加を呼びかけたのでした。

改めて言うまでもないですが、『Indignaos! (憤慨せよ!)』はその簡潔さが最大の魅力。しかし、その反面、背景をある程度共有していないと、メッセージが今ひとつピンとこないのも事実。日本でも『怒れ!憤れ!』のタイトルで翻訳が出たようなので、この機会に彼自身が本書について語ったインタビューをご紹介することにしました。スペインでの15-Mのデモから続く一連の抗議活動が、世界的な注目を浴びた直後に新聞に掲載されたものです。エセルのメッセージを理解する助けになれば幸いです。

憤慨の次に来るべきなのは、行動を誓うこと

93歳の作家や活動家の顔も持つフランス人外交官は、著作のスローガン『憤慨せよ!』の下、ヨーロッパの若者たち、とりわけスペインの若者に強烈なインスピレーションを与えた

ステファン・エセルは、パリにある自宅のサロンのテーブルの上に、怒れるスペインの若者達の写真が掲載された本紙(EL PAÍS)を一部とってある。彼の著作のタイトルの下で一連のデモが呼びかけられた最初の数日間の写真だ。この著作はスペインでは40万部に届く勢いで売れており、フランスではすでに200万部に到達している。

この93歳の若者は、的確な時期に的確な言葉を伴って現れた。実のところ彼が行ったのは要約である。自由、平等、正義、正当性、義務、人権といった何十年もの闘争と犠牲を払って獲得したにもかかわらず、今日脅威に晒されている価値観を高みに置いたこと。血と炎を礎に刻まれた言葉は、彼の場合は安っぽい煽動とはならない。なぜなら、こうしたものが消滅の危機にあるのを目にして、エセルが憤慨するのには理があるからだ。彼はペテン師でもなければ、煽動家でもない。彼が要求していることは、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』(彼はこの思想を共にしていない)に記述したことや、ゾラがドレフュス事件に関する著作『私は告発する』に込めたのと同じものだ。

1917年にベルリンに生まれ、両親がナチの脅威から逃れた後にフランス人となり、パリに落ち着いた。レジスタンス活動に参加し、ゲシュタポに死刑を宣告され、拷問を受け、いつくかの強制収容所で一時期を過ごす。世界人権宣言の起草という歴史的な出来事の数少ない証人の一人となった。その人生と高い倫理観は世界レベルでの意識を揺さぶるのに十分すぎるほどだろう。民衆のヒーローであり、明確な考えを持った平和主義のアジテーターだ。

−スペインでは『憤慨せよ!』と叫んでデモを行っている人々が何万人もいます。あなたは満足でしょうか? あなたのメッセージが浸透しているのです。

もう見ましたよ。嬉しいです。この小さな本のアイデアが持ち上がったときには、フランスのことしか私たちの頭にはありませんでした。しかし、わずか数週間の間にたくさんの出来事が生じる事態となりました。サルコジの人気が下落すると、イタリアのベルルスコーにも同じことが起こり、スペインのサパテロ、ポルトガルのソクラテスまで。北アフリカの反乱が起こる前は、世界各国の政府が人々の憤慨を誘発するような行動に関与しているというような考え方を、ほとんど目にすることがありませんでした。

−それでその考えを書いて、本にしようと思いついたと。

それは、全くもって文学的な仕事ではありません。私たちは短くて刺激的なものを出版したいと思っていました。全体として纏まっていなくても構いませんでした。ちょうどあなたが今いるところに編集者が座って、私は話を始めました。彼女が文字起こししたものに、二人で手をいれて出版したのです。

−まるでインタビューのようですね。その相手が私でなかったことが残念です。今みたいに、相手が私でも良かったのに。

まさにその通り、こんな感じでしたよ。まるで会話のように自然な形で生まれたんです。そして、一端通りに出ると瞬く間に広まりました。

-たくさんの人が、ある種の感情を一つにまとめるスピーチを待っていたのです。的確な言葉、誰もが知っている表現。それが憤慨です。

事実、そうだということを確認しました。本は二つの文章に基づいています。一つは抵抗のプログラム。これはあまり良い出来ではないのですが、的確な時期に的確な場所、つまりナチにという敵に包囲されているとフランス人が感じているときに書かれたものです。もう一つが世界人権宣言です。

-あなたが数少ない目撃者の一人となったものですね。

世界人権宣言が起草されていたとき、私はその場にいました。12人の学識者のグループに参加するには若すぎたので、私は助手でした。会議の開催や議事録の作成を手伝っていたのです。参加していたのは、ルーズベルト未亡人エレノアなど政治と法律の分野で第一線の人々でした。ニューヨークやジュネーブで会合を行い、私は書類の作成や作業状況の確認を担当しました。

-秘書のように見守りながら? 

私は若い外交官で、権限が足りませんでしたが、好奇心は溢れるほどにありました。この作業ができる限り素晴らしいものとなるように、心から願っていました。とても大きな動機が私にはあったからです。3つの収容所で戦争を終えたという事実は、私を駆り立てるのに十分なものでした。

-あなたはブーヘンヴァルト強制収容所にいましたね。

そこでJorge Semprúnホルヘ・センプルン(注)と知り合いました。大親友の一人です。彼に関して重要なエピソードがあります。収容所に着いた彼は職業は何かと聞かれ、学生(estudiante)と答えました。記録を取っていた者が「もしそう記入したら、ただちに君は殺されるだろう。私は最初の文字を残して、漆喰職人(estucador)に変えよう。こうしておけば、少なくとも手作業を振り当てられるだろうから」。彼らが求めていたのは、それ(働き手)だけだったのです。さて、『憤慨せよ!』の話に戻りましょう。

-あなたにとってのこの言葉が何を意味するのか、教えていただきたいと思っています。ポジティブな意味で用いられている言葉で、それを感じている人に訴えかける。彼らが、それを感じていない他の人たちにも伝染させるように。

ポジティブな面がありますが、暗い面もある言葉です。

-もしそうであるのなら、どうしてあなたはその光の部分が伝染すると考えたのですか?

実のところ、このタイトルは編集者シルヴィ・クロスマンの提案でした。私はすぐにOKしましたが。

-命令形を使うというのも?

その通りです。そして、エクスクラメーションマーク付けることも。強烈なタイトルです。私が提案していたら、もっと穏健なものになっていたでしょう。私は自分のことを革命家ではなく、非暴力を信じる外交官だと考えているからです。私は人々が合意に至ることを目指します。人々を対立させることではありません。

-それは現在の状況では十分に過激なことです。私たちを戦争に送るような政治家たちに囲まれているのですから。対話は今日において革命的なのでしょうか?

そうかもしれませんね。しかし、意味に関して語れというのであれば、私にとってこの言葉が説得力を持って感じられるのは、もう一つの重要な用語を含んでいることだと言うでしょう。尊厳(dignidad)です。尊厳が問題とされるときには、反応することが必要なのです。人間の一人一人が持つ尊厳を踏みにじられることから、憤慨(Indignación)はやって来ます。だからこそ、いつも私は世界人権宣言を参照するのです。その第一条には「私たち人類はみな尊厳と権利において平等である」と謳っています。

-そして、今度は行動を誓う時がきました。

新作のタイトルがまさに『Comprometeos(行動を誓え)』です。憤慨に続く倫理的なステップです。他人が何かをすることを誓っても、迷惑に思う人はいません。反乱を起こしたり、衝動的に行動したりすれば、迷惑をかける可能性があります。それはマリーヌ・ル・ペン(フランス極右のリーダー)のような人々の利となります。それが彼女が示していることですが、私が支持するのは反対方向の憤慨です。私が憤慨で身を震わすのは、基本的な権利が攻撃されたり迫害されたりしたときなのです。私にとっては、(感情的に)怒るだけでは何の意味もありません。怒りはどこにも導いてくれませんから。その後に行動を誓うことが来るべきなのです。

-難しいですね。

私が人々に提案するのは、理由なく怒ることではありません。私たちが受け継いできた基本的な価値が現在揺らいでいて、危機に置かれているのはなぜなのかと自問することです。簡単なことではありません。

-特に、こうした混乱の真っ只中で、自分の考えを明らかにすることですね。(この本は)今までとは違うタイプの憤慨や興味を培養するためのスープです。

この本を読むと、大切にしなければならないものや危機にあるもの、そして挑戦すべきことがはっきりします。

-フランス革命のことから始まって、3つか4つですね。

それはその中の一部で、他のものもあります。何度も繰り返しますが、世界人権宣言です。

-踏みにじられているように見えますか?

十分に。しかし、あの宣言が起草された時代のことを忘れてはなりません。まだ世界がいくつかの全体主義の脅威にさらされていたのです。ファシズムは敗れましたが、共産主義は存続していました。そして、その後、市場、ただ市場だけに基づいた邪悪な別のイデオロギーが課されていくことになりました。そして今日はあなたも私も、私たちの費用で自分たちの利益を追求している特権グループが招いた結果に苦しんでいるのです。代替案として何を提案するか? 真の民主主義です。

-美しい言葉ですね。

人々が必要とするものを政府が最優先で解決するように、権力をもっと共同体に託すことを信じる。これが一つ目の課題です。政府は自由、友愛、平等、社会的正義を保障するべきです。

-そして進歩。これは危機におけるもう一つの概念です。私たちは進歩を技術的なもの、科学的なものと混同しています。しかし、福祉と混同することはありません。

まったくその通りです。とても簡単なことなのですが、進歩とはより良い形へ近づいていくことを意味するのではありません。より良いという言葉は重要です。善と悪の間にある違いはなんでしょうか? どんなコストを払ってもお金を稼ぐことと、品位や誇りを護ること、どちらがより良いのでしょうか? ありとあらゆる犠牲を払っても科学的進歩の螺旋の中に入ることと、人間の尊厳を越える発見を警戒することでは、どちらが良いのでしょうか? 進歩とは速度を上げることではなく、より良い世界を支援するためには、何が良い価値観で何がそうでないのかを意識することを意味します。民主主義とはそれ自体が多くを要求するものです。(真の)民主主義は政治家により多くのことを要求し、悪事を働いたものが良い思いをすることが困難なように、システムを改善していくことを可能にするのです。(後編に続く)

2011.05.29 Hessel: “La indignación debe ir seguida de compromiso”

訳注:スペインを代表する知識人の一人で、昨年6月7日にフランスで逝去

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