少し間が空いてしまったのですが先日の記事の続きです。モンタルバンの詩が預言的だというラモンのコメントに表れているとおり、モンタルバンは、乗り継ぎのために立ち寄ったタイのバンコクの空港で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました…。
カテゴリー 文学にまつわるあれこれ のアーカイブ
モンタルバンのいない一年-番外編
文学にまつわるあれこれ への Quatre Gats による投稿 (2011/03/21)サグラダ・ファミリアから日本へのエール
文学にまつわるあれこれ への Quatre Gats による投稿 (2011/03/18)東北地方太平洋沖地震の被害に関して、日本のみなさまにお見舞い申し上げます。被災地においては一日も早い復旧を、また、日本のみなさまに一日も早く平穏な生活が戻ってくることを、心から祈っています。海老原弘子
こちらでも日本の様子は連日報道されており、ラモンを始め、たくさんの人たちから日本へのお見舞いと励ましの言葉をもらっています。
そんな中でちょっと嬉しいニュースを見つけました。カタルーニャ州政府がサン・ジョルディ祭に、日本との連帯を示す行事をサグラダファミリアで行うことを決めたそうです。
このサン・ジョルディ祭とは、カタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(聖ジョージ)の日4月23日にカタルーニャ全土で祝われるお祭りで、男性が女性に赤いバラ、女性は男性に本を互いに送りあうというのがその中身。この日は朝から街中に続々と本とバラの屋台が作られ、特に屋台が集まるラ・ランブラ・カタルーニャは毎年バラの香りにつつまれます。この日のバルセロナが一年で最も美しいかもしれません。
本場カタルーニャほどではなですが、日本でもサン・ジョルディの日は本を贈る日として知られてますよね。日本はスペイン以外でサン・ジョルディの日を祝う唯一の国だそうで、州政府はこの日を日本国民との連帯の日とすることも発表しています。
そして、開催場所としてサグラダ・ファミリアが選ばれたのは、バルセロナでは良く知られた日本人のガウディ好きのため。なんと毎年23万人の日本人がサグラダファミリアを訪れているとか! 日本人が一番「バルセロナをイメージする場所だろう」という心遣いだそうです。
まだ詳細はわかっていないようですが、バラと本で一杯のサグラダ・ファミリア。想像するだけで素敵ですよね。
元記事はこちら
ちなみにこの4月23日は、我らがセルバンテスの誕生日ということでスペインの提案で国連教育科学文化機関UNESCOが認定した『世界本の日』でもあります。こうした理由から昨年ブログを公開したのも4月23日だったんです。ちょっと嬉しい偶然になりました。
ボルヘスの遺体-2
文学にまつわるあれこれ タグと ラテンアメリカ文学 への Quatre Gats による投稿 (2011/02/21)前回ご紹介した記事の中でも触れられているように、すでに2009年の初めにボルヘスの遺体を巡って、騒動が持ち上がっていました。その詳細について、ボルヘスの未亡人コダマが主人公の記事でご紹介します。
コダマはボルヘスを尊重し彼の遺体を巡る論争を終わりにするように求めた
~未亡人は1986年の手紙が証明するように『エル・アルフ』の作者はジュネーブで永眠することを望んでいたという主張を変えない~
ホルヘ・ルイス・ボルヘスがエフェ通信に宛てた手紙は、1986年、死の数週間前の前のもので、彼がジュネーブに埋葬されることを望んでいたことのさらなる証拠だ。未亡人はこう確信しており、作家本人の意思を尊重して、その遺体を巡る論争に決着を付けたいと語った。
1986年5月6日アルゼンチン人作家は、マドリッドにあるエフェ通信の本部に一通の手紙を送った。ジュネーブで『不可解なほどの幸福』を感じているとして、この街で『見えない男になる』という決意を表明し、不本意にも記者たちに『包囲』されていることを告発した。彼の死から23年近くを経て、現在ジュネーブのプレンパレ墓地に眠るボルヘスの遺体を祖国に戻すことを求める提案を巡ってアルゼンチンで論争が起こったため、この手紙は効力を取り戻した。
ブエノスアイレスで行われたインタビューで、「ボルヘスはマスコミの包囲を制止しようとして、良好な関係にあったエフェ通信に手紙を送った。ボルヘスを尊重して、決して彼の言葉を歪めることがなかったからだ。」とマリア・コダマは説明する。「あれはまるで狩りだった。」とコダマは嘆く。ボルヘスの最期、ボルヘスと彼女は記者たちに悩まされており、ジュネーブの家に戻る途中、彼らを車避けるために車 の後部座席に姿を隠したことまであったと思い返す。
ボルヘスがジュネーブに定住する決心をしたとき、彼女はまだそれが彼の最終地になるとは知らず、だからこそ、「汚辱の世界史」の作者が死が迫っていると感じると、コダマはその遺体を祖国に戻す様々な選択肢を検討したと語る。にもかかわらずそれを断念したのは、内輪の夕食会の間にボルヘスが自らの思いを吐露し、ジュネーブに埋葬されたいという思いを受け入れて欲しいと頼まれたからだという。「自分のことを愛しているなら、都市(ブエノスアイレス)の通りに囲まれて苦しむ姿を見たくないはずだと私に言ったのよ。」と未亡人は、その死から20年経ってもなお、彼の遺体を祖国に戻す可能性について利害関係から論争が噴出していることを嘆いた。
コダマが最初にこの議論に立ち向かったのは90年代初頭のことだ。そのときは、夫の最後の意志を叶えたこと、そして彼女が相続人であることを証明するため、法廷に立たなければならなかった。彼女いわく「国際的なスキャンダルだった」が、そのことによって物事が明らかになり、争いが決着した。それがアルゼンチンの知識人の生誕110年に合わせて再燃したことは、なんともわざとらしく見えると言う。
この論争が持ち上がったのは数週間前に、ペロン党議員マリア・ベアトリス・レンスがボルヘスの遺体を祖国に戻し、アルゼンチンのラ・レコレタ墓地にある家族の墓に埋葬することを求める提案を準備していることを発表したことによる。レンスの動きは、アルゼンチン作家協会会長でボルヘスの作品コレクター、アレハンドロ・バッカロが支援していたが、このバッカロは数年前からボルヘスの未亡人と対立していることは良く知られている。この動きによって、アルゼンチンの文化界に激震が走り、マスコミは一斉に動き始めたのだ。
最終的にレンスはマリア・コダマと会合を持ち、その言い分を聞いた後で提案の提出を断念した。「法的には全く問題が生じる余地がない。法的な観点から遺体に関する権利を持つのはその家族だけなのだから。」とボルヘス未亡人で相続人は断言する。コダマは、この新しい論争の裏にはアレハンドロ・バッカロがいると言う。彼女はバッカロは『知識人として失格』で、ボルヘスという人物に『とりつかれて』ており、彼が編集を担当した25篇の文章が砂の本の著者のものだというのは嘘だと話す。
この問題について「死者の尊厳と意志に対する尊重が皆無だと思う」と続けるコダマは、16歳のときにボルヘスを知り、それからというもの「人生の全てを彼に捧げてきた」と言う。ボルヘスは「自由な存在で、決して自分自身を裏切ることがなかった。これが、ありふれた人々の大きな好奇心を掻き立てることになった。」のだと、彼女は断言する。
64歳になるマリア・コダマは、代表を務めるボルヘス国際財団の本部に博物館を開設を準備している。彼女は一時的にアルゼンチンを離れる可能性があるが、その望みは一つだという。論争を終らせること。「私をそっとしておいて。ボルヘスが求めていたように、彼をそっとしておいて。」
2009.02.27 Kodama pide respeto para Borges y el fin de la polémica de sus restos
ボルヘスの遺体-1
文学にまつわるあれこれ タグと ラテンアメリカ文学, ラモン・チャオ への Quatre Gats による投稿 (2011/02/14)死後20以上も経っても、一向にその存在感が衰えることのないボルヘス。若い頃に手がけた翻訳本の話が新聞記事になるほどですから、その遺体を巡ってはいろいろと騒動が起きていたようです。それも、40も歳の離れた相手と再婚後わずか数ヶ月で、祖国アルゼンチンから遠く離れたスイスで客死したとあっては、なおのこと。そして、その騒動には我らがラモンも登場します。
ボルヘスが眠りたかった墓地
〜矛盾する証言が作家の墓に関する議論を再燃させた〜
映像は白黒だ。話している男はホルヘ・ルイス・ボルヘスで、ブエノスアイレスのラ・レコレタ墓地にある一族の墓の前にいる。1969年のことだ。『エル・アルフ』の著者はカメラに向かって、ブエノスアイレスの中心地に最も近い墓地、『祖国の父たち』と同じ場所で、エバ・ペロンから数メートルのところに自分の家族と一緒に埋葬されたいと話す。この映像はフランス公共テレビのために、フランス-スペイン人ホセ・マリア・ベルソサとアンドレ・カンプが制作したドキュメンタリーで、『Le passé qui ne menace pas(過去は脅威ではない)』というタイトルが付けられて、フランス国立視聴覚研究所(INA)の奥底にしまわれていた。この2時間に及ぶボルヘスの映像には、アルゼンチン政府の1986年にジュネーブに埋葬された作家の遺体を祖国に戻そうという意図が巻き起こした論争に関する重要な証言が含まれていた。
「私は死を心待ちにしている。…不死になるのが怖いんだ。」と、1978年にボルヘスが、二人のガリシア人イグナシオ・ラモネとラモン・チャオに語ったのはパリのロテル。78年前にオスカー・ワイルドが生涯を閉じた場所だ。この作家でマヌ・チャオの父親ラモン・チャオこそが、忘れ去られていたベルソサとカンプの映画を救い出した人物なのだ。「これは非常に重要なドキュメンタリーだ。作家がブエノスアイレスに埋葬されたがっていたことを示しているからね。」と彼は話す。
これが、ボルヘスの唯一の証言ではない。彼の伝記作家の一人アレハンドロ・バッカロは、アルゼンチンの新聞La Nación において1961年に発表された詩と短編の私的アンソロジーを引用した。「ラ・レコレタの前を通るときは、いつもそこに父や祖父母、高祖父母が埋葬されていることを思い出す。いずれ私もそうなるように。」と当時書き記している。バッカロは与党の議員グループを理があるとして擁護している。彼らは、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルの執行部の支援を受け、8月にボルヘスの遺体をスイスから祖国に戻すために、マリア・ベアトリス・レンス議員を通じて法案を提出したのだ。
しかし、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの願い、そしてアルゼンチンのナショナリズムは、作家の最期の妻と衝突した。マリア・コダマは、ブエノスアイレスのラジオ局のマイクの前で「民主主義において、いかなる政党のいかなる人間も、一個人の遺体を自由に処分したり、それを試みようとしたりすることはできない。それは愛に人生を捧げてきて、今現在も捧げ続けている者にとって、最も神聖なものなのだから。」と言い切った。本紙に対する証言の中でコダマはそうしたボルヘスの考えは「60年代の」のものだと言っている。「ボルヘスはスイスに移住し、スイス人になることを望んだのです。つい最近バッカロが言うことと全く反対のことを話している後年のインタビューが放送されたでしょう。」と彼女は言う。
未亡人は自分が「ボルヘスに関して決断を下せる唯一の人間である。(彼の)シンボルとしての力は作品にあるのであって、遺体にあるのではない」と言い、アレハンドロ・バッカロに対して「倫理的にも文学的にもボルヘスのレベルにはない。ただマスコミを騒がせるスキャンダルを起そうと狙っているだけなのよ。」と怒りを隠さない。そして、レンス議員の動きを助長したと非難する。90年代半ば、似たような論争に関して彼女が正しいという判定が下されたことを回想するよりも早く、「バッカロ氏、それとも世の中の人々? ボルヘスに関してこうしろと私に言うのは誰なの?」と疑問を投げかける。死の数ヶ月前にボルヘスと結婚したマリア・コダマは、現在も死んだ夫の作品を偲ぶ行事に足を運んでいる。
しかしながら、ラモン・チャオにとって、この論争はさほど疑問の余地があるものではない。「彼はアルゼンチン人で彼の作品もアルゼンチンのものだ。それにベルソサのビデオで明らかにしている。」このガリシア人ジャーナリストは、1975年からボルヘスの個人秘書であったマリア・コダマこそが、『ブエノスアイレスの熱狂』の作家に埋葬を取り仕切った人物だと述べる。数多くのボルヘスのテキストに潜在する自死する家族の伝統や「循環する死」という考えが、当時の会話にも現れている。チャオは言う。「重要なことは『Le passé qui ne menace pas』の中にある。そこには霊廟に出入りしているボルヘスの姿があり、その霊廟は彼が死後に眠りたいと思っていた 場所なのだ。」
2009.02.12 El cementerio donde Borges quería descansar
マルケスとリョサの間で-番外編2
文学にまつわるあれこれ タグと ラテンアメリカ文学 への Quatre Gats による投稿 (2011/02/07)そして今年に入って間もなく、またまたこの二人の因縁を思い出させるような出来事が報道されました。
バルガス・リョサ、ボルヘスの翻訳に350ドル支払う
バルガス・リョサは、ウルグアイのモンテビデオの書店において、1938年にホルヘ・ルイス・ボルヘスが翻訳し、再版されることがなかったカフカの『変身』を発見した。リョサが同書店に入店したのは初めてではなかった。しかしながら、今回は彼が宝石とみなしていた本を見つけたのだ。
オマージュとして温泉療養地プンタ・デル・エステで行われる講演に招待されていた作家は、妻パトリシア、息子アルバロと一緒にウルグアイに到着した。そして、ルイス・アルベルト・ラカージェ、フリオ・マリア・サンギネッティ、ホルヘ・バッジェといったウルグアイの元大統領たちと昼食を共にした。
その前に、ウルグアイの首都で贔屓にしている書店リナルデ&リッソに立ち寄り、45分程過ごした稀少本・初版本コーナーでカフカのボルヘス訳を見つけたのだ。
店主アルバロ・リッソによると、本を目にしたバルガス・リョサは「これが見付かるとは思ってもいなかった」と言ったという。彼は「その後決して再版されていなかったことを私に教えてくれた」と述べた。他にも3、4冊の本を選んだが、その中でもこの1938年のロサダ版が最も重要な作品だった。そして最も高価でもあった。
リッソはバルガス・リョサ、妻と息子は一時間ほど書店にいたと語った。「彼はとても上品で、とても優しい。ノーベル賞をとっても変わらない。玄人で、彼が目をつけたものは簡単には入手できないものだ。」と強調した。
四回目となる今回の来店は、ノーベル賞受賞者となってからは初めてであった。
エッセー、短編小説、詩の他に、ボルヘスはとても若いときから翻訳に身を投じていた。彼がスペイン語に訳したものは、フランツ・カフカの他に、エドガー・アラン・ポー、ジェイムス・ジョイス、ヘルマン・ヘッセ、ラドヤード・キップリング、ハーマン・メルヴィル、アンドレ・ジッド、ウイリアム・フォークナー、ウォルト・ホイットマン、ヴァージニア・ウルフ、ジャック・ロンドン、ジョージ・バーナード・ショー、ジョナサン・スウィフト、H.G.ウェルズ、G.K.チェスタートンなどがいる。
2011.01.12 Vargas Llosa pagó 350 dólares por una traducción de Borges
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この記事の中では語られていませんが、実はこのボルヘス訳『変身』こそが、ガルシア・マルケスを作家の道へと誘った本なのです!! このことは自伝『Vivir para Contarla』の中で、マルケス自身が証言しています。
「その本はフランツ・カフカの変身だった。ブエノスアイレスの出版社ロサダが出版したボルヘスの偽翻訳で、最初の一行で私の人生の新しい道が決まった…」
騎士小説が大流行したスペイン文学の黄金世紀(15~17世紀)には、作家が自分のオリジナル作品をアラブ語やラテン語で書かれた書物の翻訳だと偽ってを発表することも多く、こうして翻訳として発表されたオリジナルの小説を『偽翻訳(Falsa traducción)』と呼んだそうです。マルケスがここで『偽翻訳』と言っているのは、『変身』がカフカの手を離れて、ボルヘス自身の作品と呼べるものだったからでしょう。
マルケスとリョサ。愛憎が複雑に絡み合ったこの二人関係は、彼らの著作に勝るとも劣らないほど興味深いですよね。
『Vivir para Contarla』は『生きて、語り伝える』(旦敬介訳)として新潮社から発売されています。







