イグナシオ・ラ モネと私は、『反逆するパリ París Rebelde』というタイトルのパリのガイドを出版したばかりだ。その中で私たちは、その後に立ち上がって遺産として受け継いで押し付けられてきた考えに反旗を翻がえすことになる人々が、フランスの首都でその日のために人格を育みながら暮らした場所を示している。

まず初めにイグナシオと私は、この道程を辿ったガリシア人たちについての調査を行ったのが、それは困難をきわめた。私たちは大変興味深いことに気が付いた。たくさんのスペイン人がパリに亡命したり、パリで教育を受けたりしたのに対して、ガリシア人たちはラテンアメリカへ向かったのだ。そこは彼らにとってはパリよりも近くにあった。船に乗ればいいのだから。

こうして、私たちはカステラオ [1]のことを考えた。イグナシオがパリに彼の足跡があるはずだと執拗に言い張ったにもかかわらず、それを見つけ出すことはできなかった。同じように、セオアネ [2]とセルソ・エミリオ・フェレイロ [3]や(前者はアルゼンチン、後者はベネズエラにおいて)、メキシ コにおけるルイス・ソト [4] とカルロス・ベロ [5] 関しても同様だった。

しかしながら、私たちは、マリア・カサレス [6]とエンリケ・リステル [7]を見つけ出すことはできた。カサレスには彼女本人に直接会うことができ、リステルに関しては彼の息子のエンリケとマルガ リータ・レド [8]が情報を提供してくれた。

パリでのリステルの住居を探すとき、地図上でシャルル・ボシュ通りを見るために、私たちは虫眼鏡を使わなければならなかった。本当に短い通りで、 ドーメニル大通りとリヨン駅の間にすっぽりと収まっていたのだ。その5階1号室―寝室とちっぽけな食堂に浴室兼用の台所(トイレは外にあって同じアパート に住む5家族の共用だった)―はエンリケ・リステルにとっては理想的な場所だった。彼は1946年から1950年までそこに暮らした。

党幹部はパリ郊外の庭付きの一軒家を彼に提供したのだが『それは断った。これが賞賛されるべきことだったとも、自分自身は英雄的な行為だったとも思っていない。ただ、さらに 悪いことには、フランスにあった我々の党の党員はそうした環境で暮らしていたのだ。』

この住居は2度警察の家宅捜査を受けた。最初は1947年のブルガリア共産党大会後に彼が逮捕されたとき。次は1950年9月7日、フランスでスペイン共産党が非合法化された後のことだ。これは『ボレロ』作戦の時に起こったのだが、このときにフランシスコ・アントン、サンティアゴ・カリージョ、フェルナン ド・クラウディン、イグナシオ・イダルゴ・デ・シスネロス、エンリケ・リステル、アントニオ・ミヘ [9]が難を逃れたのは奇跡に近い。

当時リステルの妻と子供たちはハンガリーでの休暇を楽しんでおり、用心のために、父親はその夜自宅で眠らないことにしたのだ。警察は何一つ違法なものを見つけることができなかった。

その代わり、ピソを受け継いだ賃借人の驚きようを想像してみるとしよう。彼は、煙突を掃除しているとき に、リステル私有の武器を発見したのだ。弾丸2箱と9口径のワルサー銃。その誰とも知れない男性は、この銃がアントニオ・マチャード [10]に詩の着想を与えたことを知っていたかもしれないじゃないか?

君の手紙―おお、決して眠らない高貴な心
御しがたいスペイン人、力強いこぶし!―
君の手紙は、英雄リステルよ、私を慰めてくれる
私の屍のような肉体に重くのしかかることで
君の手紙が私に届けた轟は
イベリア半島の大地の上の聖なる戦いからやってきた
そして私の心もまた目を覚ました
巡礼者たちの埃の匂いに囲まれて
エブロ河への到着を巻貝が告げる場所
そして冷たい岩
そこで芽吹くのはそうしたスペインの署名
山から海にまで伝わる、私のこの言葉
『もし私のペンに、君の指揮官の銃と同じ力があるなら、
私は満足して死ねるだろう』

Tu carta- Oh noble corazón en vela,
español indomable, puño fuerte!-,
tu carta, heroico Líster, me consuela
de esta que pesa en mi carne de muerte.
Fragores en tu carta me han llegado
de lucha santa sobre el campo ibero;
también mi corazón ha despertado
entre olores de pólvora romero.
Donde anuncia marina caracola
que llega el Ebro, y en la peña fría
donde brota esa rúbrica española:
de monte a mar, esta palabra mía:
” Si mi pluma valiera tu pistola
de capitán, contento moriría”.

私たちがマリア・カサレスに会ったのは1978年エスパス・カルダンの彼女の楽屋だった。ちょっとした自己紹介だけで十分だった。私たちはガリシア人だったから、顔をぱっと輝かせ、夢と覚醒に満ちた眼差しで私たちを歓迎してくれた。彼女が話すスペイン語は、まるでふざけているかのようなガリシア訛りだった。

私たちは彼女にガリシアで流行っていた小咄を披露した。弁護士サンティアゴ・カサレス [11]が農夫の 訪問を受ける。隣人が所有する大木のせいで太陽の光が入らないというのだ。『私はどうしたらいいのでしょうか?』『そう、隣人はその木を切らなければならない。』『一筆書いていただけますか? それを彼に見せます。』ドン・サンティアゴは言われたとおりにした。するとその田舎者は彼に言い放つ。『じゃあ、あなたに木を切るようお願いします。あなたのものなんですから。』

マリアは別の小咄でお返ししてくれた。カサレスの市は、市を上げてサンティアゴ・カサレスに敬意を表する。市庁舎のバルコニーで、父親が彼女に虫の知らせを告げる。『人々がどれほど私を喝采しているかわかるかい? この調子だと、もうすぐ私はトマトを投げつけられることになるだろうよ。』

マリア・カサレスは、従順でない«estrictu senso» [12]ではなかったから、『反逆するパリ』には収めなかった。彼女のことは、もうすぐ脱稿する移民についての本のために取って置くことにしたのだ。

マリア・カサレスは、反逆する«stricto senso» [13]ではなかったから、『反逆するパリ』には収めなかった。彼女のことは、もうほとんど 完成している移民についての本のために取って置くことにしたのだ。

2008.08.03-”Líster y Casares”(ラジオチャンゴJPより転載)
Notas

[1] Alfonso Daniel Rodríguez de Castelao:ガリシア語の作家でパリに亡命。政治家、風刺画家、画家でもあった

[2] Luis Seoane López:画家、版画家、作家。ブエノスアイレスで生まれだが、幼少期にガリシアに移住

[3] Celso Emilio Ferreiro:ガリシア人の作家でベネズエラに移住

[4] Luis Soto:共和国派政治家

[5] Carlos Velo:映画作家

[6] María Casares:スペイン出身のフランス人女優

[7] Enrique Líster:政治家でスペイン共産党員

[8] Margarita Ledo:ガリシア人でジャーナリスト、作家、映画作家でもある

[9] 全てスペイン共産党員

[10] Antonio Machado:最も有名なスペインの詩人の一人

[11] Santiago Casares:マリアの父親で政治家。スペインの首相の在任中に市民戦争が勃発し、首相の座を追われる

[12] おそらく日本の院卒の相当する学位のガリシア語表記

[13] 同様の意味のラテン語語表記。正しくはstricto sensuと表記するようです

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