世界中から注目を集めたチリのサンホセ鉱山に閉じ込められた33人の作業員。感動の救出劇の熱狂も冷め、この事故の背景にある問題が明らかになってきているようです。

私はこのニュースを最初に知ったとき、チェのことを思い浮かべました。というのも、チェはバイクでの南米旅行でチリを訪れた際に、今回の事故があったサンホセ鉱山があるアタカマ州の北に位置するアントファガスタ州チュキカマタ鉱山に立寄ります。そこで青年エルネストが目の当たりにするのは、鉱山を経営する企業に搾取されながら劣悪な環境で働く鉱夫たち。鉱夫たちと交流をした後に一人のコミュニストと偶然出会い、このときかわした会話がチェのその後の人生に大きな影響を与えることになるのです。

そして、もう一人ラテンアメリカ初の選挙で選ばれた左派大統領サルバドール・アジェンデのことも。彼もチェと同様元々は医師でした。

実は私も長い間チェに対しては『革命のために武力闘争を肯定したゲリラ』という暴力的なイメージを抱いていたのですが、ある記事を読んだことでがらっとそのイメージが変わりました。それがアジェンデとチェに関する記事でした。その中からキューバ革命直後の1959年1月20日のハバナ訪問をアジェンデが回想した部分を抜粋しておきます。ラテンアメリカ初の選挙で選ばれた左派大統領となるアジェンデは前年の大統領選挙に破れ、この時はまだチリの大統領ではありませんでした。

初めてのキューバ訪問でチェと連絡を取った。その瞬間から、私は彼に対して愛情と尊敬を抱いた。自分はチェの友人だったと言えると思っている。…そんなことよりも、私にとって計り知れない価値を持つことを示したい。意外に思うかもしれないことだが、彼は変革という自分の計画を進めるために、武力的手段も、破壊行為も、軍隊も全く支持はしていなかったといことだ。彼は、アジェンデが投票と民衆の意見に応じることでチリの制度を変革できると、その可能性を信じていたのだ。…ほら、その答えはチェの本の献辞にある。「手段は異なるが、同じことを目指しているサルバドール・アジェンデへ。愛情をこめて。チェ」違いはあった。それは議論の余地がないことだが、それは形式的なものにすぎない。根本的にはその姿勢は似ていて、同じようなものだったのだ。

(José A. Buergo著『Salvador Allende y el Che Guevara: iguales y diferentes 』より)

アジェンデは1973年9月11日米軍の支援を受けたピノチェト将軍が企てたクーデターに倒れます。クーデター直後に大粛正が始まり、歌手のVictor Jaraビクトール・ハラなど親アジェンデだった人々が次々と殺害されていく中で、奇跡的に助かりヨーロッパに逃れた映画監督がいました。これがMiguel Littínミゲル・リッティン。

ピノチェトの独裁政権に抵抗する人々の支援を受けた彼は、ウルグアイ人に変装して独裁政権下のチリに潜入しドキュメンタリーの撮影を敢行します。その顛末を描いたのがガルシア・マルケスの著作「La aventura de Miguel Littín clandestino en Chile」。彼はCM撮影のロケハンと称してチリ中で撮影を行うのですが、その過程で首都コンセプシオン郊外の炭鉱に向かいます。

その旅路で1958年に鉱夫たちがビオビオ橋を渡って首都コンセプシオンまで行ったデモにアジェンデが居合わせていたことを回想しています。その後、大統領となったアジェンデがまず手を付けたのが鉱山の国有化でした。そして、クーデターを成功させたピノチェト将軍は、すぐさま鉱山を再び民営化するのです。


岩波新書から出ている邦訳「戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険」(後藤政子訳)は残念ながら現在絶版のようです。手に汗握る展開で下手な冒険小説よりずっと面白いので、古書店ででも目にしたら是非とも手にとってみてください。復刊を願っています!

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