一ヶ月ほど前のことだ。ミシェル・ガジェから電話があって、バスケス・モンタルバン [1] へのオマージュに参加できるかと聞かれた。テレラマ誌の文芸批評者で有名な小説家でもあるミシェル・ガジェは、マノロの翻訳者で彼をフランスに紹介した人 物だ。ある日私に告白したところによると、 “El Pianista(ピアニスト)”の全編に現れるフランスの音楽運動”Grupo de los Seis”に関して、すべてを調査し情報を提供したのが彼女だったという。これは私にとってモンタルバンの最良の作品だ。

夜会の日程は未定。我らがマノロがパリに来ると訪れていたレストランLa Canaille次第だった。総勢40人ほどだったから、レストランにとって私たちを受け入れるのが可能だった唯一の日が先週の月曜日だった。それはちょ うど、誰が意図したわけでもないのに、マノロが姿を消した日にあたった。最初の偶然。ボルヘスは「偶然は存在しない。全ての一致は約束されたものだ」と 言ったけれど。

ここで出席者の名前を挙げるつもりはない。編集者、ジャーナリスト、作家、画家、イラストレーターといった我らが友の友人たち。最後に、彼との友情 や私たちの関係、共にした経験を話すようにせがまれた。期待を裏切るのが怖かったが、彼らに言った。「私たちは友達ではなかった。私にとって友人とは、時 々会って、電話して、抱擁を交わし、全てを語る相手だが、マノロとはそうではなかった。お互いに相手のことが好きだったけれど、それは仲介人を介してだっ た。時折バルセロナからパリへ誰かがやって来て私に言う。「バスケス・モンタルバンと会った。彼は君のことが大好きだよ。」私は同じ言葉を返す。何年も間 こんな風だった。会うと「やあ、マノロ」「やあ、ラモン」と、そんな感じだ。

セデイラ(ガリシアの町)の友人とも同じようだった。彼の名前はルビデ・ラモンデ。15年間一度も会うことなく過ごした後で、フェロルの彼の店に挨 拶に行った。『やあ、調子はどうだい?』すると彼はカウンターに探しに行って、その下から十年以上も前に私に描いてくれた絵を出してきて、私にくれたの だ。まるで前日会ったばかりのように。

エル・ルビオ(彼はこう呼ばれていた)とマノロは、私にルイス・デ・レオン修道士の『十番目の昨日』のことを考えさせた。モンタルバンを知ったのは 雑誌トリュンフォで、刑務所から出てきたばかりのときだった(彼の方で、私は刑務所に入ったことはない)。私たちは年に2、3回雑誌の方向性を話し合う会 議に行った。私はパリ、彼はバルセロナから。彼は控えめで、口数が少ないが腹に一物抱えているような-ここにガリシアの血が顔を出していた-男だった。あ る日ミシェル・ガジェから電話を受けて私は驚いた。バスケス・モンタルバンの代理だと言って、私に助言をもらえないかというのだ。彼女を“Los mares del sur(南方の海)”を翻訳していたところで、私が助言に最適の人物だとマノロが彼女に言ったそうだ。

私たちは遠くからお互いのことを思っていた。もしくはイデオロギー的な類似性によって。私たちはお互いに『トリュンフォ』に書いたものを読みあっ た。その後は、この雑誌の記念の会などで数回顔を合わせた。近いところでは、メキシコでマルコス副司令官と一緒のとき、そしてチャベスのベネズエラにおい て。最後に会ったのは4年前、バルセロナで夕食を共にした。彼はATTACの動きについて、そして息子マヌについて、私に次から次へと質問してきた。その 後マヌを彼に紹介して、二人はいい友達になった。

彼らにそんな話をしていた夕食会の最後に、ミシェル・ガジェはマノロの本『Pero el viajero que huye(だが、逃げる旅人は…)』の中の一遍の詩を、原文とフランス語訳のデュオで一緒に朗読しないかと私を誘った。1990年の日付があるが、あまり にも預言的で鳥肌が立つ。

『郵便配達が持ってきたのはバンコク・ポスト/タイランディア・トラベル/封印された一通の手紙/愛する人の死/毎朝私にアメリカン・ブレックファ ストを運んで来る少女/尋ねてみたけれど/私の手紙はなかった/あるいは同情心から渡さなかったのか/生死を待つ外国人に対しての/忘れ去られて アジアの片隅にいる/郵便配達が二度ベルを鳴らすことはない/ヤマハに乗って知らないまま微笑む/距離があるおかげで/記憶が我々の望みを叶えてくれるこ と』

[1] マヌエル・バスケス・モンタルバンはバルセロナ出身の作家で、ガリシア人私立探偵ペペ・カルバリョが主人公の探偵小説が広く知られている。カタルーニャ語のマヌエルはスペイン語ではマノロとなるため、ラモンは彼のことをマノロと呼んでいる。

広告