ちょうど一週間前の1月15日にこの世を去ったスペインの大物政治家マヌエル・フラガ。ラモン・チャオとこのガリシアの政治家は同郷で、奇妙な縁で結ばれていました。その詳細は『チェのさすらい』の番外編に収めたエッセイ『検閲』の中で、ラモン自身が明らかにしています。

スペインは、独裁者フランコが後継者として指名した現国王フアン・カルロスの下で民主化への道を歩むこととなりました。つまり、独裁政権が倒されることがなかったのです。そのために、フランコ時代の権力者はその後も権力を維持することができました。その結果、独裁政権時代の弾圧に対しての責任の追求が曖昧なまま、歴史の中に置き去りにされてしまったのです。

ラモンの「音楽家としてのキャリアを誰よりも支援し、ジャーナリストしてのキャリアを誰よりも傷つけた」マヌエル・フラガの人生を辿ると、民主化したスペインが抱える歪みが透けて見えてきます。そして、この歪みから生まれて来たとも言えるのが「真の民主主義を今すぐに!」というスローガンでした。

マヌエル・フラガ死す−権力を追い求めた60年

昨年11月までPP国民党の議員を務めたガリシア人政治家は、自らの政党の政権下で死去した

スペインの歴史60年分がすっぽり入る百科事典のように膨大な内容が収められた伝記。あるいは、独裁政権、移行期、民主化、そして自治州国家までが一望できる概説。この書物が、昨日の夕方マドリードにおけるマヌエル・フラガの死によって閉じられた。89歳、今年の初めから患っていた呼吸器疾患から回復することはなかった。彼の死によって、 時を隔てて現在の右派をフランコ主義と結びつける最後の輪が消え去った。フランコの下で傑出した役職―まさに宣伝相であった―を務めた後に、独裁政権の崩壊から無事に抜け出すことに成功した人物は、彼以外にはいない。

フラガは政治の世界でさらに36年生き延びた。昨年の11月まで議員を務め、現スペイン政権与党の創設代表として死去。彼は伝説的な適応能力によってこうしたことを全て可能にしてきた。新憲法において自治の発展にブレーキをかけようとしたわずか数年後に、ガリシアに隠居して自治州の偉大な指導者となるということすら、やってのけたのだ。高く尊敬されていると同時にひどく憎まれてもおり、常に曖昧さのない態度で、最も無慈悲な敵すらも彼の政治的能力を否定しないという状況を作り上げて、この世を去った。火曜日いつも夏を過ごしていたペルベス(ガリシア州ア・コルーニャ)に、亡き妻とともに埋葬されることになっている。慰問所はマドリードの自宅に月曜日の10時半から設置される。

また、フラガとともに、決して帰ってくることのない公的指導者の階級が別れを告げる。政治的な正しさとプレハブ方式の演説というアンチテーゼ。デモ参加者に喧嘩を挑む、新聞記者たちの前で協力者を笑い者にする、ある女性代議士に向かって、「そのお嬢さんが示してくれたもので興味が持てるのは襟ぐり(から見える胸の谷間)だけだ」と言い放つ、こうしたことをやってのける人物。火山のように劇しやすいタイプで、90冊の著作を出版して博識を示すことも、新聞の見出しに最も粗野なフレーズを提供することも楽しんだ。権力の動物で、常日頃から約束していたように「最後の一息まで」自分の人生を権力に捧げた。他のいかなる個人的動機も彼にこの目標を断念させることはなかった。過剰なことに取り憑かれており、他の誰よりも一キロでも多くの距離を回る、一人でも多くの人と握手する、一つでも多くの会合を行うといった、馬鹿げたような偉業を自慢するのが常だった。ロンドンで大使を務めていた時期に、他の国々の外交官を訪ねるという外交的義務を果たした唯一の人物であったことを自慢げに語っていた。その数100ヶ国以上、「トンガ島までも含む」と強調していた。立ち止まることなく、『ビラルバのライオン』の神話を育み、一分の自由時間も取ることなく、早朝から夜中まで、決して越えることのできない聖なる壁を前にしていた。

彼の大きな挫折は、運命付けられているように見えた、スペイン政府首相の座に手が届かなかったことだった。フランコ主義者という過去—彼は決してそれを否定しなかった―がその資格を取り上げたので、代わりにガリシア自治州大統領で良しとしなければならなかった。そこで、政府からの人物という属性全てを持って、一国を率いるという熱望を満たすことができた。約16年に渡って大統領を務めた彼を、その座から追いやるには二つの大災害が重ならなければならなかった。プレステージ号(注1)と老い。しかし、1951年に始まった政治家人生において6期を満了するという驚くべき記録を達成した。その政治家人生は、独裁政権が親ナチの法律家カール・シュミットの著作を熱心に注解していた若き教授だった彼を独裁政権がスペイン文化研究所の総書記にしたときに始まり、21世紀スペインの民主主義議会において終わった。

彼の成功の秘密の一つが、決して田舎者のメンタリティを完全に捨て切らなかったことだ。1922年11月23日ガリシアの農村地帯に生まれた。生誕地ビラルバはルーゴ県一地区の行政サービスの中心であった。父親は農民であったが、キューバに幸運を求め、そこで敬虔なカトリックの教育を受けたフランス系バスク人マリア・イルバルネと結婚する。その子供フラガはガリシアで生まれたものの、幼少時代の初期をキューバで過ごした後、ビラルバで二人の叔母に育てられることになる。家族が移民の出稼ぎで集めた貯金で、勉学を行うことができた若きフラガは、驚異的な記憶力と学問への没頭で頭角を現した。教室で彼の伝説が始まった。法律と政治の課程を一度に終えると、25歳で国会弁護士と外交官学校の選抜試験で一番となり、26歳で大学教授の地位に到達する。

フラガはまるで流星のようだった。彼の野心の道のりは不可避的に独裁政権の奥底を通過しなければならなかった。40歳で情報観光省の大臣の地位を与えられるまでは、省のナンバー2として功績を上げる。フランコ主義が発展に全身全霊を捧げる中で、フラガは政権の原理原則を疑う明白に支持することから、垢まみれの当時のスペインの中おいて、ある種の現代性の象徴として姿を現した。彼の観光キャンペーンによって、よく知られているスゥエーデン人観光客と最初のヒッピーがスペインにやって来た。予備検閲を廃止―しかし、出版物を差し押さえる可能性は残した―し、規制を緩めて当時のマスメディアにおいて支配的だった偽善を緩和した。これによって、「フラガと一緒ならブラガ(ショーツ)まで(注2)」というよく知られたフレーズが生まれる。非常に早くからメディア的な社会における行動の重要性を理解し、米軍機が核爆弾を失ったパロマレスにおいて、米国大使と共に何千回も海水浴を繰り返した。政権のプロパガンダキャンペーンを組織すると同時に、共産党員フリアン・グリマウの銃殺のようなほとんど擁護不可能なエピソードを擁護するために立ち向かった。しかしながら、多くのスペイン人にとっては、政権改革への意欲の象徴であった。

彼の人生において何度も繰り返されたように、野心が彼を破滅させた。その当時政権を支配していたオプス・デイ(注3)の技術官僚たちが、1969年彼を追い出すことに成功したのだ。彼はフランコ主義の内部からの批判者のような立場に転身し、特に在ロンドン大使に任命された1973年以降はこのイメージの確立に務めた。フランコが衰弱し始め、根本的な変革が近づいていることがわかると、移行期を指揮するために英国の首都から、熱狂的なまでの熱心さでスペイン、そして世界中の人々との接触を進めた。そしてフランコの死後、第一次アリアス・ナバラ内閣において、現在の内務相である自治相となる。

フラガの道のりがオープンな考えに基づいたものであったことに疑いの余地はない。しかし、政権が消滅すると、その土台に変えることなしに、モデルを変更することを提案した。一例を挙げるなら、共産主義者を公職に組み込むといいう気などは微塵もなかった。彼の権威主義は彼の省が行った大きな議論を巻き起こした行動―ビトリアにおける労働者や(ナバラ)モンテフラにおける左派カルロス党員の暗殺―と混ざり合い、民主派の対抗勢力からは残忍な人間と見なされるに至った。『通りは私の物』というフレーズは、彼自身は否定していたものの、対抗勢力は彼が言ったものだとしている。彼の人生における最大の不幸は、国王がスアレスを新しい政府の首相に選んだときに訪れた。フラガは君主に反抗して、新内閣で大臣職を受けるという圧力を拒絶する。

それから創設したAP国民同盟(現在のPP国民党)は、民主的な保守政党となろうとしたものの、それを率いていたのは素晴らしき7人と呼ばれた前政権の老いぼれの集まりであった。 不承不承に新憲法を承認し、栄光よりも苦悩とともに23F(注4)の夜をやり過ごすと、UCD民主中央連合の崩壊により、社会主義者の大波の前に取り残された。フェリペ・ゴンサレス(注5)がいろいろ気にかけたことで第一野党となり、「国家の頭に収まる」と宣言した。こうした時代から語り継がれている有名な演説がある。国会においてヒヨコ豆1キロの値段を暗唱して、真の民主主義への代替案とすべく、かつてのフランコ主義の重要性を説いたのだ。怒りに震えて何年かを過ごしたあとで、立会人の座を譲る。国民同盟党首の後継者としてイサベル・トシノを指名しようとするが、ホセ・マリア・アスナールを選ぶように説得された。

ガリシアにおいて自分の小さな国家を構築した。熱狂的なレベルに達する崇拝者たち―彼らはフラガを『偉大な舵取り』と呼ぶ―に囲まれて、カストロのキューバ、イスラム教徒のイラン、カダフィのリビアを含む世界の半分を旅し、政治と情報を厳格にコントロールして、自分の敵に分をわきまえさせた。彼のカメレオンのような性格(『政治はベッドを共にした相手を他人にする』と言っていた)によって、徹底したガリシア主義者に変身することができた。自治主義的な提案によって、自らの政党を苛立たせることも一度や二度ではなかった。引退も後継者の指名も一切考えることはなかった。プレステージ号の黒潮に続く社会蜂起が起こり、さらには健康状態の明白な悪化―公の場で倒れることが何度かあった―が加わってようやく、選挙での支持を彼から取り上げることができた。

あまりにも権力を目指す競争に夢中になり、あまりにもささいな人の問題を犠牲にしたために、自分の家族を含めて人間関係を修復しなければならない羽目に陥った。 マドリッドへ行くように彼を説得したのは、彼自身の娘たちだった。そこで少しずつ覇気を失い、声は次第に小さく震えるようになったが、最期まで権威に固執した。議会の議席、そして自分の運命はスペインを導くことだと確信したときに創設した政党の名誉議長の座に。

2012.01.15 Muere Manuel Fraga, 60 años de pasión por el poder 

訳注:

  1. プレステージ号—2002年11月19日リベリアの石油タンカーがガリシア沖で沈没し、重大な環境被害を引き起こした事件
  2. カトリック教会と結びついていたフランコ政権は非常に保守的であったにもかかわらず、フラガが観光キャンペーンの一環として利用した映画の中では、スペインのビーチの魅力をアピールするために、水着姿の女性がたくさん登場したことを揶揄している
  3. スペイン発祥のキリスト教ローマ・カトリック組織
  4. 1981年2月23日に軍部が起こした国家クーデターで、失敗に終わった
  5. 首相を務めた社会労働党党首
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