見覚えのある写真に目が止まり手にした一冊の本。

Marie-Françoise Petuil 著『Helen Hessel, la mujer que amó a Jules y a Jim(エレン・エセル、ジュールとジムを愛した女)』と題された本の帯を読んで驚きました。この「ジュールとジム」と言うのはフランソワ・トリュフォーの映画『突然炎のごとく ジュールとジム』の登場人物のことで、ジャンヌ・モローが演じたカトリーヌのモデルはなんとステファン・エセルの母親だったんです。

画家、ジャーナリスト、作家、ミューズ、フェミニスト、レジスタンス、翻訳家、哲学者…と多くの顔を持つHelen Hesselエレン・エセルは、ジュールのモデルであるエセルの父親の作家Fran Hesselフラン・エセルと2回結婚して、2回離婚。ジムのモデルとなった作家Henri-Pierre Rochéアンリ=ピエール・ロシェと15年に渡る婚外関係を続けたという、型破りの女性だったとか。

というわけで、ちょっと間が空いてしまいましたが、ステファン・エセルのインタビューの続きをご紹介します。前半はこちらからどうぞ。

-憤慨という言葉が持つニュアンスに戻りましょう。その感情があなたを暴力的な道へ導いた時代がありました。心の中では何を感じていましたか?

私は暴力的な人間ではありません。人々を暴力へと導くものを理解することはできますが、私にとっては納得できるものではありません。私の最初の憤慨には、ナチスという名前がありました。フランコやムッソリーニのファシズム、さらにスターリンに関しては1935年に粛清を行っているというニュースが入ってきていました。全体主義です。その上、私たちには閉鎖的な共産主義者と対称をなすスペイン人共和主義者というお手本がありました。

私は常に自分は民主主義者だと考えてきましたから、民主主義のシステムの危機に私は憤慨したのです。しかしながら、疑いも抱いていました。第一次世界大戦が甚大な被害を出したことで、万策尽きるまでは再び紛争に突入するべきではないと、私たちの多くは考えるようになっていたのです。異なる国々の人々と交渉し、約束することをまず行うべきだということ。しかし、こうした人々(ナチスや全体主義者たち)が望んでいる唯一のことは、暴力的なやり方でヨーロッパを征服することだということが明らかになりました。そのときになって初めて、私は武力によって彼らに立ち向かうべきだと確信しました。

-では、その憤慨は物質的に、今現在あなたが感じている憤慨と比較しうるものでしょうか?

異なります。当時の私は若く、闘志がありました。時期が訪れ、立ち上がり彼らに立ち向かうことが必要だということがわかったときに、私の中に闘いたいという欲望が溢れて出してきたのです。迷うことなく軍隊に入隊しました。そして、ドイツと停戦が結ばれると、私は再び憤慨しました。それは不名誉なことで、イギリスに対する背信であると感じたからです。私は反対でした。容認することができませんでした。私には何ができるだろうか? フランスで戦う? 国外でド・ゴールに加わる? それが私が行ったことでした。

-あなたが彼(ド・ゴール)と親密な関係にあったと言う人もいます。

それは違います。私はとても若く、低い階級の士官でした。しかし、ロンドンに着くと内輪の夕食会を共にするという光栄に預かりました。彼が私を招待してくれたのです。当時のフランスで非常に威信のあった高等師範学校の若い学生が、自分についてどう思っているのか知りたがっていました。そのレベルにいる学生たちが自分についてどんな意見を抱いてるかを知りたがっていたのです。

少なくとも幸運なことに、ド・ゴールもまた憤慨していました。フランス人の大部分はそうではありませんでしたが。世界中に民主主義の旗を掲げた国において、あれは全く奇妙なことでした…。何が起こったのでしょうか? フランスはあまりにもひどく打ちのめされていたのです。1940年5月から6月の間に起こったことは、歴史上とても珍しいものでした。それは単なる軍事的勝利ではありません。それは屈辱的な大敗北で、その中で人々は自分の家から思いも寄らなかった場所へ逃げなければならなかったのです。多くの人々にとって、停戦は休息に見えたのです。平和は多くの人々の心を惑わしました。しかし、あれは平和ではなかったのです。

-それは屈辱だったのですか?

さらに他の要因もありました。ソ連の脅威がブルジョワ階級を恐怖に陥れていたのです。彼らはファシズムが行き過ぎないうちは、彼らの生活スタイルに危害を加えることはないと考えていました。ナチスは誰よりも、共産主義者に対するブレーキを保障するものだったのです。

-それから、あなたの個人的なケースでは、新たに別の憤慨がやって来ました。

ゲシュタポです!

-そこであなたの身体そのものが危険に晒されました。逮捕はどんな風でしたか?

逮捕されたときには、生き残れないだろうと確信していました。重大な犯罪容疑で逮捕されたのですから。彼らは私がロンドンにやってきたのはレジスタンスを強化するためだと知っていました。

-さらに、あなたはユダヤ人でした。

そのことを彼らは知りませんでした。私についてあまり知らなかったです。もし、私の父がベルリンから移民したユダヤ人だということに気付いていたら、別の方法で私を扱っていたことでしょう。しかし、彼らは私を高いレベルのスパイのように扱いました。それで、あなたならスパイに何をしますか? 明白なことですが、彼から情報を得ようとするでしょう。

-拷問によって?

その通りです。浴槽に私を沈めました。しかし、私に誰のことも密告させることはできませんでした。そして、そのことに私は満足していました。その後で、私は死刑を宣告されました。幸運にも裁判の進みが遅く、私はブーヘンヴァルト(強制収容所)に収容されることになります。そこに私を絞首刑にするという命令が届いたのですが、すでに遅かったのです。そのときはもう私は、誰にも気がつかれることなく、すでに死亡した人の身元に変えることに成功していたのですから。その人物が死刑宣告を受けていなかったために、私は自由の身になりました。

-そうした日々の中では、憤慨は恐怖に変化していたのではないかと想像するのですが。

正確にはそうではありません。祖国を愛する若者しか感じることができない何かに変わりました。自分の義務を全うし、祖国のために犠牲になったと信じる高慢な確信です。

-英雄だと!

(笑)エピソードを一つ話しましょう。逮捕されたとき、私は紙切れを手にして、暗記していたシェイクスピアのソネットを書いたのです。『No longer morn for me when I am dead…』意味は、もし明日銃殺されるのであれば、妻に知って欲しい。私は彼女が喪に服すことではなく、幸せでいることを願っていると。全く馬鹿げたことです。こうしたことは、いつも馬鹿げたものになってしまいます。

-死と向き合う気高い方法の一つではないでしょうか。

人生は皮肉に満ち溢れています。

-もしそのときに93歳を迎えると言われていたら…

全くその通りですよ! 私に次の憤慨が訪れたのは強制収容所の中でした。戦争が暴力的なことは知っていました。しかし、人類がこれほどの残忍になれると想像したことはありませんでした。

-英雄と感じることから別の状況へ。犠牲者という状況です。

個人的というだけではなく、共同体の一部としての犠牲です。なぜなら、私個人的には幸運でした。死刑を宣告された36人のグループの中で、私は助かりました。私とあと2人が助かったのです。私は別の収容所に送られて、逃亡しました。逃亡に成功したものの、再び捕らえられてドーラに収容されました。そこで私を絞首刑にするか、25回の鞭打ち刑にするか議論が行われたのです。しかし、私はどちらからも免れました。というのも、私を尋問した士官に対してこう言ったのです。「勇敢なあなたであれば、私のように脱走を試みただろうと確信しています。私はそれを実行して失敗しましたが、あなたたちを傷つけたわけではありません。」こうしたことをすべて、母語であるドイツ語で説明したのです。もし彼らの言語を私が話さなかったら、おそらく私を刑から救い出すことは誰にもできなかったでしょう。

-あなたの人生には楽しいときもありました。人権宣言の起草に立ち会ったときのように。フランス、米国、ソ連、サウジアラビアのように全く異なる国々が共通の見解において同意する。大変なことでしたか?

現場からの声として、大変だったと証言します。1948年に成し遂げていなければ、不可能だったでしょう。もしそれ以降であったなら、その後に緊張状態が起こったことで、実現不可能となっていたでしょう。その歴史的瞬間にソ連は棄権し、アラブも同じでした。これによって、可決が可能になったのです。絶好の機会でした。人類の歴史にとって野心的なテキストです。

-その瞬間、あなたの憤慨は希望へと歩を進めたと思うのですが。

そうですね。その瞬間は本物の、真実の瞬間であり、戦争後の国家間の理解においての大きな希望でした。あのテキストが世界の大部分を自由と正義へ向かう正しいルートに乗せるだろうと、私たちは確信していました。しかし、長くは続きませんでした。その後に別の感情がやってきたからです。第三次大戦という危機が生じるのではという不安でした。それは今までの戦争とは異なり、核の大惨事と共にやって来る。世界は二つの恐怖を体験していました。ホロコーストとヒロシマです。そしてこのことが、私たちに巨大な恐怖に陥れたのです。それは複雑で不安定な世界でした。もし国連が人権を敬い発展させるプログラムにおいて成果を得ることができなければ、すべてが崩壊するように感じていました。

-今現在、当時に感じた楽観的な見方が、その一部でも残っていますか?

私はそれでもまだ、ゆっくりと小さな歩みの前進が、進んだり戻ったりしながら、続いていくだろうと信じています。20世紀の最後の10年間は先行きがとても楽しみなものでした。ベルリンの壁の崩壊以降、私たちは新しい時代に入ったと確信を持っていました。2000年千年紀にコフィ・アナン代表の下で合意に達しました。ところが、ツインタワーが崩壊して…。私たちは21世紀をとてもまずい具合に始めました。

-テロの脅威とともに。しかし、またブッシュ、ブレア、アスナールたちの側からの国際ルールの破棄もありました。あれは世界秩序にとって何を意味するとお考えですか?

あれは現在の私の憤慨の一部です。実際、私たちが大きく前進していることに人々が気がついていたときに、それらの指導者たちは急ブレーキをかけて、間違った方向に私たちを向かわせたのですから。

-あれは実際のところ変装したファシズムの一種にすぎない、民主主義の雑種に対する軽視だったのではないでしょうか?

もちろんです。20世紀末に形作られ始めた新世界秩序において、尊重される基本的なルールのうちの一つが国際的な権利でした。それを壊すことは、さらに悪い状況に入り込むことを意味しました。

-怠慢で無知な統治者たちに対して、私たちには何ができるのでしょうか?

憤慨することです! 私たちは別の統治者と、そしてまた、もっと品位のある人々を掬い上げる社会を必要としてるのです。私たちは未熟な不安感に陥ったり、政治家はみんな同じだと考えてはなりません。なぜならそうではないからです。怒りと無関心は私たちをどこにも連れて行ってくれません。

-あなたの人生には、もう一つ継続してきた憤慨があります。パレスチナです。

またもや、国際ルールの破棄、残虐性の押しつけ。ガザとヨルダンの状況には、私が人生において最も我慢のならないものが全て集まっています。強制収容所で感じたのに近い憤慨です。私はイスラエル国家を大変評価しています。しかし、その政府が私が人生において耐え忍ばなければならなかった最悪の政府と似たような方法で振舞っているときに、私にはそれを容認することはできません。私は反対します。米国やEU、現在の状況に関わりを持つ企業の許可の下で、彼らが行っている権力乱用を告発します。気候変動について合意を結ぶことができないでいることに関しても、同じように感じています。今はオバマがビン・ラディンの殺害で人気を得ている状況で、何かを進めてくれることを願っています。

-ところで、その件に関してあなたの意見は?

そうですね。彼がいなくなったことついて、喜ばしいと思っています。驚くべき力を持った殺人者でした。とりわけ、イスラムに関して世界中に忌まわしいイメージを与えましたから。事実はそうではありません。この数ヶ月間でアラブの国々の人々が起こした反乱は、彼らも(私たちと)共通の方向性を望んでいるのだということを、私たちに知らしめる役目を果たしました。しかし、ビン・ラディンの話に戻ると、別の方法、逮捕と裁判がが望ましかったでしょう。

-反移民政策の脅威によってヨーロッパはどこに行くのでしょうか?

それこそが私の本の目的です。人々に価値のある新しい挑戦に立ち向かうことを自覚させること。危機にあるのは私たちの身近な人々だけではありません。私たちの世界が日増しに、ネオコンや環境の扱い方を知らない人々によって脅威にさらされているのです。行動する誓いを信じることが鍵です。私たちは敗北を運命付けられているのではないのですから。しかし、敗北を防ぐためには一歩前に進まなければなりません。

2011.05.29 Hessel: “La indignación debe ir seguida de compromiso”

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