熱い秋—イグナシオ・ラモネ

あたかも夏休みが危機の残酷さを消し去る忘却のマントであるかのように、マスメディアは集団麻痺に陥らせるような素材の大量投入で私たちの気を反らそうとした。サッカー欧州選手権、ロンドン・オリンピック、『有名人』のひと夏の恋、などなど。彼らは私たちに忘れさせたがっているのだ。新たな削減がひたひたと迫りつつあること、スペインの第二の救済プランが社会的にさらに嘆かわしいものになるであろうことを…。しかし、それを成し遂げることはできなかった。いくつか理由の中には、フアン・マヌエル・サンチェス・ゴルディリョとアンダルシア労働者組合(SAT)の大胆不適な警告(訳注)が魔力を破って、社会の警戒態勢を保ったことが挙げられる。秋は熱いものとなるだろう。

8月に行った哲学者ジグムント・バウマンとの公開対話において[1] 、政治を行う伝統的方法に失望している私たちの社会で優勢になっている悲観主義と断絶する必要があるという点で、私たちは意見が一致した。私たちは孤立した個々の主体であることをやめて、変化を起こすもの、相互連結した社会活動家となるべきなのだ。「私たちには自分の生活をコントロールする義務がある。私たちは深刻な不確実性の時代を生きており、そこで人々は指揮しているのが誰なのか実際には知らない。そして、そのことによって、私たちは政治家や伝統的な社会制度に対する信頼を失っている。それが人々に与える影響は、絶え間のない恐怖、不安…といった状況だ。政治家は人々に常に恐怖を感じろと暗示をかけている。こうして人々の支配や権利の制限、個人の自由の縮小が可能となる。私たちは現在非常に危険な時期にいる。なぜなら、こうしたこと全ての結果が私たちの日常生活に影響を及ぼすからだ。彼らは私たちに繰り返す。労働に安心を求めて、厳しい労働条件であっても、不安定な雇用であっても、それを維持するべきなのだ。そうすれば、消費できるお金が手に入るのだから…と。恐怖は、非常に強力な社会のコントロール方法なのだ」とバウマンは述べた。

もし人々が指揮しているのが誰かを知らないのであれば、それは権力と政治の間に分岐が生じたからだ。少し前までは、政治と権力は混じり合っていた。民主主義において、かつては政治という道を通って、選挙で行政執行権を勝ち取った候補者が、完全な正当性を有してそれを行使(もしくは委任)できる唯一の人物であった。今日、新自由主義の欧州においては、もはやそうではない。大統領選での勝利は、当選者に現実的な権力の行使を保障することにならない。なぜなら、政治統治者の上に(ベルリンとアンゲラ・メルケルに加えて)選挙で選ばれていない二つの最高権力があるからだ。統治者が制御できないものと統治者に行動を命令するもの。つまり、欧州のテクノクラートと金融市場である。

この二つの権力機関が自分たちの計画表を押し付ける。欧州クラートたちは、遺伝的に新自由主義である欧州条約や欧州メカニズムに対して盲目的に服従しろと要求する。その一方で市場は、正統派新自由主義から逸れるという不服従には、それがいなるものであっても罰を与える。こうして、二つの堅い土手に挟まれた川床の囚人と化した政治という川は、強制的に一方向に進んでいき、ハンドルを操作する余地もない。つまり無力なのだ。

「伝統的な政治制度は、日に日にますます信用できなくなっている。なぜなら、人々がある日突然に包囲されていると気がついた諸問題を解決する手助けをしないからだ。民主主義(人々が投票したもの)と市場から押し付けられた命令の間に機能停止が生じた。市場は人間の基本的な権利、社会的権利を丸飲みにしている」とバウマンは言った。

私たちは市場対国家の大戦争に立ち会っている。私たちは、市場がその全体主義的野心によって、 全ての支配を欲するところまできてしまったのだ。経済、政治、文化、社会、個人…。そして現在、彼らのイデオロギー的装置として機能する大衆向けマスメディアと結託して、市場は社会的進歩の建物を解体することも欲している。それは、私たちが『福祉国家』と呼ぶものだ。

重要なものが賭けの対象になっている。機会の平等だ。例えば、ひっそりと教育が民営化(つまり、市場に譲渡)されつつある。削減策とともに、低レベルの公教育が増加している。そのレベルでは、教師にとっても生徒にとっても活動を行う条件が構造的に困難なものとなるであろう。公教育によって、貧しい家庭に生まれた若者が這い上がるのを助けることが次第に困難となるであろう。そのかわりに、裕福な家庭にとってはおそらく私的教育がさらに大きなブームとなるであろう。再び社会的特権層が形作られて行き、彼らは国家権力の地位に到達する。そして、それ以外の人々、第二の層からは、服従という地位への道しかない。そんな状況を許すことはできない。

そうした意味では、危機はおそらくショックの役割を果たしている。社会学者ナオミ・クラインが著書『ショック・ドクトリン』で扱ったショックのこと[2]で、新自由主義の計画表の実現を可能にするために経済の惨事を利用することを示す。新たな権力機関が目を光らす冷酷な緊縮プログラムの適用を可能にする(スペインで起こりつつあり、アイルランド、ポルトガル、ギリシャにおいてはすでに起こったように)ために、国家の民主主義を監視と支配下におくための装置が造られた。この新たな権力機関『トロイカ』は国際通貨基金 (IMF )、欧州委員会、欧州中央銀行で構成されるが、これらは民主主義的な機関ではなく、そのメンバーも人々から選挙で選ばれてはいない。市民を代表する機関ではないのだ。

それにもかかわらず、そうした機関は-経済、金融、産業の圧力団体の利益に服従する大衆向けマスメディアの支援を受け-民主主義を見かけだけの影絵の舞台の状態に追いやるコントロールの道具を作り出すのを担当している。政府の大政党の好意的な加担とともに。ロドリゲス・サパテロとマリアノ・ラホイの削減政策の間にどんな違いがあるというのか? ほんのわずかだ。両者ともに金融投機家の前に下僕のように頭を足れて、欧州クラートの指示に盲目的に従った。両者ともに国家の主権を売り払った。どちらも市場の無分別にブレーキをかけるための政治的決断を行わなかった。ベルリンからの命令と投機家たちの攻撃を前にして、唯一の解決策は―古来の残酷な儀式のように―民衆を犠牲にすることだと考えたのだ。あたかも社会を痛めつける嵐が、市場の貪欲さを鎮めることができるかのように。

こんな状況においても人々には政治を再建し、民主主義を再生する可能性があるのだろうか? もちろんある。社会的抗議活動の拡大は止まらない。そして、要求を掲げた社会運動は倍増していくであろう。今のところスペイン社会はまだ、この危機が事故のようなものであり、事態は間もなく以前のような状態に戻るだろうと信じている。それは幻影だ。そんなことが起こらないであろうこと、そしてこうした緊縮は『危機によるもの』ではなくて、構造的なものであり、生み出された状況がそのまま固定されることに気がついたとき、そのときに社会の抗議活動はおそらく重大なレベルに到達するであろう。

そのとき抗議者たちは何を要求するのだろうか? 私たちの友人ジグムント・バウマンにははっきりとわかっている。「私たちは、新しい生活モデルと新しい真の民主主義を可能にする新しい政治システムを構築するべきである」。私たちは何を待っているのか?

(訳・海老原弘子)

[1] 2012年8月16から23日にベニカシ(バレンシア州カステリョン)で開催されたロトトム・サンスプラッシュ・フェスティバルにおいて企画された社会フォーラムの中で行われた。www.rototomsunsplash.com/es

[2] ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店/2011年)http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/023493+/top.html

Otoño caliente : Ignacio Ramonet 

(ル・モンド・ディプロマティク・スペイン語版2012年9月号より)

訳注)ゴルディリョとSATについては以下の記事を参照ください。

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