スペインでは経済危機に突入して以来、日常的に抗議活動が行われていて、ゼネストもその中の一つに過ぎません(ゼネストについては前回の記事も参照ください)。例えば、バルセロナでは9月以降公共交通機関のストだけでも24回を数えています。

いわゆる「過激な左派」と呼ばれるグループが作成したこのゼネストのまとめビデオにはサボタージュ封鎖ピケテこちらの記事も参照ください)など、ゼネストでの個別の手法が紹介されています。もちろん、スペインでも公共物を破壊したり、通行を妨げたり、商店の営業を妨害したりすれば、法律で罰せられますが、ゼネストの際は抗議の方法としてある程度許容されています。

何故許されるのかというと、ときには抗議のために法律を犯す必要があると考えられているのです。実際にスペインの人々は法律に従わないことで社会を変えてきました。例えば、スペインの社会から徴兵制がなくなったのも、法律で義務とされていた兵役を拒否する行為の積み重ねからでした。

そして、SATのスーパーの一件が『合法であること』と『正当であること』の間にある亀裂を目に見えるものにしました。経済危機から抜け出すためという理由で、社会的な権利を制限する法律がどんどん可決されて行く中で、スペインの人々の『合法であること』の『正当性』への疑いが日に日に大きくなってきています。なによりも、フランコ体制というのは法律によって築かれた合法的な独裁政権だったのですから、スペインの人々が『合法であることの正当性』に敏感なのは当然かもしれません。

「正当性が合法性に優先する」という考え方の根拠になっているのがDesobedencia Civil 市民的不服従という概念です。ゼネストは労働法に定められた権利なので、市民的不服従とはちょっと異なるようですが、PAHが行う立ち退きの阻止もその一つ。

他にも、処方箋あたり1ユーロの支払いを拒む、地下鉄の値上げに抗議して集団で無賃乗車をする、高速使用料の支払いを拒否する…。こうした行為は全て市民的不服従に当たるとイグナシオ・ラモネはインタビューで答えています。彼の定義によると市民的不服従とは、合法であるのかもしれないが、市民が不当だと考える政府の決定を拒否する集団的行為のこと。

市民戦争に関してフランスの作家アルベルト・カミュはこんな文章を残しています。

理のある者が打ち負かされることもあること、力によって精神を崩壊できること、時には勇気が報われないことがあることを私たちの世代が学んだのは、スペインにおいてだった。これがこれほどたくさんの人々が、世界中が、スペインのドラマをあたかも自分の悲劇のように感じる理由であることに、疑いはない。(アルベール・カミュ『スペイン』1946年)

それから半世紀以上が経過して、15Mを契機にスペインの人々は再び立ち上がり、自分たちに理があることを示そうとしています。根気強く抗議活動を続ける彼らを支えるものが何であるのか、明解に説明してある文章をご紹介します。今年の夏に訪日したスペインの経済学者フアン・トーレス氏の「Derecho a deobedece服従しない権利」についてからの引用です。

私たちスペイン人が政府の裏切り、そして、少数の特権階級だけの利益となる嘘に基づいた不当な政策の押し付けを受け入れなければならない理由はない。その政策がスペイン政府から出てくるものであっても、ブリュッセルもしくはまさに地獄から出てくるものであっても同じだ。

1793年の「人間と市民の権利の宣言」第35条に謳われているように、「政府が市民の権利を侵害する場合、民衆やそれぞれの集団にとって蜂起とは、有する権利の中で最も神聖なものであり、義務の中で最も必要不可欠なものである」。なぜなら、世界人権宣言がその前文の中で、民衆には「圧政や抑圧に対して反逆するという最高位の手段」があると明言しているからだ。

もし、人々がこうした権利を行使していなかったとしたら、現在押し付けられているような不当な法律に背いていなかったとしたら、PP国民党幹事長が求めるように「責任を持って」服従していたとしたら、今もなお奴隷制があり、黒人は劣った人種であるとみなされ、そして女性は選挙で投票することができず、父親もしくは夫の許可なしには決断を下すことができなかったであろう。

民衆に逆らって統治する専制君主に服従するのはもうたくさんだ! PPが主役の選挙による詐欺、そして(民主化への)移行から生まれたシステムにどっかり腰を下ろした政党の無能ぶりと腐敗を終わらせるために、恐れることなく総選挙を要求しなければならない。そして、私たちの国民主権と基本的人権の行使の本当の意味で庇護し、悪性の腫瘍のような腐敗と闘い、税制上の公正と正義の原則を敬うことを義務付け、市民と社会の参加のための新しい手段を与え、私たちが自由を失ってもなんとも思わないような首相に統治されるといった恥ずべき状況が再び起こるのを許さない、そのような新憲法への道を開かなければならない。

こうした政策を私たちに押し付けている者たちは、すでにある程度の社会的な答えと拒絶を計算に入れている(「彼らは何千という行進やストを行うことができるが、何も変わらないだろう」と、現在欧州の民衆と同じものに苦しんでいたアルゼンチンにおいて1997年7月メナムは言った)。だからこそ、孤立した団結のない回答では十分でない。彼らには決して打ち負かすことができない唯一の方法で専制君主に対しては応えなければならない。それは、最大限の民衆の団結、市民的不服従、彼らの規則や押し付けに対する平和的、つねに平和的かつ民主的なサボタージュだ。恐れることなく希望を抱いて、行うのだ。ガンジーは非常に明解に言った。「常に専制君主や人殺しというのはいて、一時は無敵なように見えていた。しかし、いつも最後には失脚してきた。いつでも」

つまり、不当なことに対して抵抗するのは権利であると同時に義務であり、不当なことへの服従は義務を怠っていることにもなるというわけです。

また、スペインの人々は、労働条件や社会福祉を勝ち取ってきたという歴史があります。こうした歴史的背景も相まって、年配の人々はその権利を次の世代に残すため、若い世代たちは先人の努力を無駄にしないため、今日もまたスペイン各地で抗議活動を続けています。決して諦めないスペインの人々の根気強さは、過去と未来に対する責任感から生まれているんですね。

「服従しない権利」を盾にした宣戦布告のようなこのPVは、ちょうどスペインがEUに救援プランを要請した直後に発表されたもので、タイトルは『救援ぎりぎり』。

―資本主義者たちよ、テロリストはお前たちだ―

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