写真: Alex Castro
写真: Alex Castro

フィデルとのさらなる2時間―イグナシオ・ラモネ

 春のように穏やかな日だった。魅惑的なキューバの12月に特徴的な、あの眩いばかりの光と澄み切った空気に溢れていた。近くの海の匂いが届き、わずかなそよ風で揺れる緑の椰子の音が聞こえてくる。この時期のハバナにふんだんにあるそうした「味わい」の中で、私は友人と昼食を取っていた。突然、電話がなった。私の連絡窓口である人物だった。「君が会いたがっていた人が30分後に君を待っている。急げ」。すべてをそのままにして、私は友人に別れを告げ、指示された場所に向かった。そこでは地味な車輛が私を待っていて、運転手はすぐに首都の西に進路を向けた。

私は四日前にキューバに到着していた。グアダラハラ(メキシコ)のブックフェアからやってきたのだが、そのフェアで私はボリバル革命の指導者との対話である新著『Hugo Chávez. Mi primera vidaウーゴ・チャベス―我が人生の第一章[1]を発表してきたところだった。ハバナでは、例年のこの時期と同様、ラテンアメリカ新映画祭が大変な盛り上がりで開催されていた。そして、そのディレクターであるイバン・ヒロウは親切にも、映画祭が創設者アルフレド・ゲバラに捧げるオマージュに私を招待してくれたのだ。真の天才クリエーターで、キューバ映画の最大の推進者であった彼は、2013年4月に他界した。

いつものにように、ハバナに到着すると、フィデルはどうしているかと尋ねた。そして、数人の共通の友人を通じて、彼によろしくと伝えてもらっていた。もう一年以上も彼に会っていなかった。最後に会ったのは2012年2月10日、『平和と環境保全のために』という素晴らしい集会の中でだった。これはハバナ国際ブックフェアの機会に開催されたもので、キューバ革命の司令官が40人ほどの知識人と対話を行った[2]

あの機会には、多岐に渡ったテーマが取り扱われた。筆頭は『メディアの権力と頭脳操作』で、開会式スピーカーとして私が話すことになった。 私の発言の終わりにフィデルが言った的を得た意見を、私は忘れていない。『問題は支配的なメディアがつく嘘にあるのではない。それを私たちに妨げることはできないのだ。今日私たちが考えるべきことは、私たちがどのように真実を語り、広めるのかということだ』。

この集会が続いた9時間の間、キューバの指導者は選ばれた聴衆に感銘を与えた。当時85歳という年齢で、元のままの精神の活力と好奇心を保っていることを示したのだ。新しいものに向かって、変化に向かって、未来に向かって計画を練りながら、アイデアを交換し、テーマを提案し、立案した。常に世界の流れにおける変化に敏感であった。

19ヶ月が経過して、今回どのように変わった彼に出くわすことになるのだろうか? 彼に近づく車の中で私は自問した。この数週間というものフィデルはほとんど公に姿を現しておらず、発表した分析や意見も例年より少なかったのだ[3]

私たちは到着した。微笑を浮かべた妻ダリア・ソト・デル・バジェに伴われて、フィデルは自宅のサロンの入り口で私を待っていた。光が差し込む広い部屋で、太陽が燦々と降り注ぐ庭に面している 。私は感激しながら彼を抱擁した。彼は素晴らしく元気に見えた。話し相手の魂を探る短剣のように輝く目をしている。すでに対話を始めようとうずうずしていて、『Cien horas con Fidelフィデルとの100時間[4]という書籍となった私たちの長い対話を、10年後に継続しようとしているかのようだった。

まだ座ってもいないうちから、もう私にフランスの経済状況やフランス政府の姿勢などに関して膨大な量の質問を投げかけてきた。 二時間半に渡って、テーマがあちこちに飛びながらも、 すべてについて少しずつ、古い友人同士のように話をした。明らかにそれは友人としての会談であって、仕事上のものではなかった。私は私たちの会話を録音することも、会話中にメモを取ることもしなかった[5]。そして、この報告は、キューバの指導者の現在の意見のいくつかを知らせることに加えて、単に善意あるいは悪意から「フィデル・カストロはどうしているのか?」と問う、多くの人々の好奇心に応えようとするものである。

すでに私は「素晴らしく元気だ」と言った。一週間以上前に他界したネルソン・マンデラに関して、まだ何も発表していないのはなぜかと、私は彼にたずねた。彼は私にこう明言した。「それに取り組んでいるところだ。記事の下書き[6]がもう終わる。マンデラは人類の尊厳と自由のシンボルだった。私は彼のことを良く知っていた。桁外れの人間性と感銘を与えるほどの考えの高潔さを持った男。かつてアパルトヘイトを庇護していた人々が、今になってどのようにマンデラの賞賛者であると公言しているかを見るのは、興味深いね。なんという皮肉だ! こう問うてみる。もし彼には友しかいなかったのであれば、当時マンデラを刑務所に入れたのは誰なのか? 憎むべき犯罪行為であるアパルトヘイトがこれほどまで長い年月続いたのはどうしてか? しかし、マンデラは真の友人は誰かを知っていた。刑務所から出たときに、彼が最初に行ったことの一つが、私たちを訪ねて来ることだった。まだ南アフリカ大統領ですらなかったのに! なぜなら彼は、クイト・クアナヴァレの戦い(1988年)において、南アフリカの人種差別的軍隊のエリートの首をへし折り、そうすることでナミビアの独立を支援したキューバ軍の偉業がなければ、アパルトヘイト政権は崩壊することなく、彼は刑務所で死んでいたであろうということを無視しなかったのだ。そして、南アフリカは核爆弾をいくつも有していて、それを使う用意があったのだよ!」

それから私たちは、共通の友人ウーゴ・チャベスの話をした。彼がまだ喪失のひどい苦しみ の下にいることがわかった。彼は目にうっすらと涙を浮かべながら、ボリバル主義司令官のことを思い起こした。著作『Hugo Chavez. Mi primera vida(ウーゴ・チャベス―我が人生の第一章)』を「二日間で」読了した(訳注 : 700頁を越える著作)と私に言い、「これから君は第二章を書かなければならない。私たちはみなそれを読みたいと思っている。それはウーゴに対する君の借りだよ」と付け加えた。そこにダリアが入ってきて、その日(12月13日)は、あまりにも不思議な偶然だが、キューバとベネズエラの二人の司令官の最初の出会いからちょうど19年だということを私たちに知らせた。沈黙があった。その状況が突然、 形容しがたい厳粛さを私たちの訪問に与えたかのように。

一人考えに耽りながら、そのときフィデルは1994年12月13日のチャベスとの最初の出会いを回想し始めた。「それはまったくの偶然だった。エウセビオ・レアル(訳注 : ハバナ史学者)がボリバルについての講演を行うために彼を招いたことを知った。それで彼と知り合いになりたいと思ったんだ。彼を待ち受けるために飛行機の下まで行った。そのことはたくさんの人を驚かせたよ。チャベス自身も含めてね。だが、私は彼に会いたくてうずうずしていたんだ。私たちは一晩中話し明かした」と思い返した。「どちらかといえば、あなたからテストされているように感じたと、彼は私に言っていましたよ…」と、私は彼に言った。フィデルは笑い出した。「確かにそうだ! 彼のことをすべて知りたかったんだ。そして、私は彼から強い感銘を受けた…。彼の教養、明敏さ、政治的知性、ボリバル主義的な観点、礼儀正しさ、ユーモア…にね。彼はすべてを備えていたんだよ! 私は目の前に、ラテンアメリカ史上最も優れた指導者の器を持つ傑出した人物がいることに気が付いた。彼の死は、私たちの大陸にとって悲劇であり、最良の友人を失った私にとっては大きな個人的な不幸だ…」。

「あなたは、その会話の際にチャベスがこうなること、つまり、ボリバル革命の創始者になるであろうことをうっすらと感じましたか?」「彼は不利な状況から出発した。軍人であり、社会民主主義者-実際のところは超自由主義者であったが…-の大統領に大して反乱を起こしていた。権力の座に反動的な軍人をたくさん有してきたラテンアメリカの状況においては、左派の人々の多くはチャベスを信用しなかった。当たり前のことだ。彼と話をしたときに、今から19年目前に、私はすぐにチャベスがラテンアメリカにおける左派の軍人の偉大な伝統を求めているのだと理解した。ラサロ・カルデナス(1895-1970)を始めとするものだ。将軍でありメキシコ大統領だった彼は、最大規模の農業改革を行い、1938年に石油を国営化した」。

そこからフィデルは、ラテンアメリカにおける「左派の軍人」に関して広範囲に話を展開していき、ボリバル主義の司令官にとって、ペルーの将軍フアン・ベラスコ・アルバラードが打ち立てたモデルの研究が有した重要性について力説した。「チャベスはが彼と知り合ったのは1974年、まだ士官学校の生徒であったときに行ったペルー旅行においてだった。私もまた、ベラスコとはその数年前の1971年12月に会っていた。人民連合とサルバドール・アジェンデのチリを訪問した帰りだ。ベラスコは重要な改革を行ったが、過ちも犯した。チャベスはその誤りを分析し、それを避ける術を知っていたのだ」。

数あるベネズエラの司令官の長所の中で、フィデルがとりわけ強調していたのは次のことだ。「彼は新しい指導者世代を一つにまとめる術を知っていた。チャベスの側で、彼らがしっかりとした政治教育を身に付けたことが、主にチャベスの死後、ボリバル革命の継続で明らかになった。その中にいるのが、ニコラス・マドゥロだ。彼の持つ毅然とした態度と明晰さによって、12月8日の選挙での輝かしい勝利が可能となった。命運を分ける勝利によってその指導力が確かなものとなり、その進展に安定がもたらされた。しかし、マドゥロの周りには、ほかにもエリアス・ハウア、ディオスダド・カベジョ、ラファエル・ラミレス、ホルヘ・ロドリゲス…など素晴らしい能力のある人物がいる。彼らはみな、ときには非常に若いときから、チャベスに教育されたのだよ」。

そのとき、会談に彼の息子アレックス・カストロが加わった。数々の素晴らしい本の著者[7]である。「思い出に」と写真を何枚か撮り始め、その後にそっと姿を消した。

フィデルとは、イランについて、11月24日にジュネーブで達した暫定合意についての話もした。キューバの司令官が熟知しているテーマであり、詳細まで語ってから、結論として私にこう言った。「イランには民間利用のための核エネルギーを有する権利がある」。続けて、数カ国の大国が手に過剰な数の核爆弾が存在することとその拡散によって、世界が核の危険にさらされていることを警告するため「私たちの地球を何度も破壊する力を持つ」と。

ずっと前から、彼は気候変動を懸念しており、世界の複数の地域において、温暖化ガスの排出という観点から有害な結果を伴う、石炭探査ブームが意味する危険について私に語った。「日に約100人が炭鉱事故で亡くなっている。19世紀よりもひどい大惨事だ…」と、私に打ち明けた。

彼は農学や植物学の問題への興味を持ち続けている。種で一杯のフラスコを何本か私に見せてくれた。「これは桑のものだ。とても気前のいい木で、そこから無限の利益を得ることができ、その葉っぱは蚕のえさになる…。間もなく、このテーマについて話すため、桑の専門家の学者が来ることになっている」と私に言った。

「あなたは勉強をやめないようですね」と、私は彼に言った。「政治指導者は、現役のときには時間が足りない。本を読むことすらできない。悲劇だよ。だが、私はもはや政治活動していない現在も、時間がないことに気が付いた。なぜなら一つの問題についての関心を持つと、関連するほかのテーマにも興味がいく。そして、こうして読むべきものや会うべき人が蓄積していく。そして、間もなく、これほどたくさんの知りたいことを、もう少しだけ知るためにすら時間が足りないということに気が付くんだ…」と、フィデルは応えた。

2時間半は飛ぶように過ぎていった。ハバナでは夕暮れのないまま日が傾き始めており、司令官にはまだ他の約束があった。親愛をこめて彼とダリアに別れを告げた私は、とりわけ、フィデルが以前と変わりない目覚しい知的高揚を持ち続けているのを確かめられたことで、幸福であった。


[1] Ignacio Ramonet『Hugo Chávez. Mi primera vida』(Debate、Barcelona、2013年)

[3]フィデル・カストロ : « Las verdades objetivas y los sueños »(Cubadebate、La Habana、2013年8月14日) 参照のこと

[4] 『 Fidel Castro. Biografía a dos voces 』( Debate、Barcelona、2006年)キューバ版タイトル

[5] 本記事でのフィデル・カストロの引用はすべて記憶によるものであり、原文どおりではない。著者の記憶に基づいて後から再構成したものだ。いかなる場合にも、それをフィデル・カストロの責任に帰すことはできない。

[6] フィデル・カストロ『 Mandela ha muerto ¿Por qué ocultar la verdad sobre el Apartheid? (マンデラ逝去ーなぜアパルトヘイトの真実を隠すのか?)』(Cubadebate,、2013年12月18日)

[7] Alex Castro ほか『Fidel, fotografías 』( Ediciones Boloña、 La Habana、2012年)を参照のこと

Dos horas más con Fidel-IGNACIO RAMONET

 (ル・モンド・ディプロマティク・スペイン語版2014年1月号より)

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