スペインではこのところ、政治とは距離を置いてきた市民運動周辺の人たちの政治参加が増えています。 ほとんどが、1990年代の反グローバリゼーション運動に関わり、市民的不服従による市民運動を進めてきた人たちで、その代表例と言えるのが、結党から4ヶ月あまりで欧州議会選挙において5議席を獲得したPodemos ポデモスの顔Pablo Iglesiasパブロ・イグレシアスです。

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イグレシアスは、1996年にサパティスタ民族解放軍EZLNが主催した「Primero Encuentros Intercontinentales por la Humanidad y contra el Neoliberalismo(第一回新自由主義に反対する人類のための国際集会)」がきっかけで生まれたMovimiento de Resistencia Global 世界抵抗運動(MRG)メンバーとして、反グロ運動に参加。2001年のジェノバの反G8に関して、エル・ムンド紙のインタビューも受けています。さらには、サパティズムに関する研究で博士号を取って政治学者となったという、まさに反グロ運動の申し子のような人物。そんな彼の突然の出馬表明は、各方面に驚きを持って受け止められました。

こうした状況の中で、 先日『権力を取らずに世界を変える』の著者ジョン・ホロウェイのインタビューが、エル・ディアリオ紙に掲載されたので、紹介しておきます。

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ジョン・ホロウェイ―Podemos、あるいはSyrizaは状況を改善できるだろうが、挑戦となるのは資本主義から抜け出すことだ

有名な著作の出版から10年、ジョン・ホロウェイは権力を取らずに世界を変えることは可能と考え続けているのだろうか?

2002年にジョン・ホロウェイは、頻繁に言及される一冊の本を出版した。『権力を取らずに世界を変える』である。もう、たくさんだ!のサパティスタ、2001年から2002年にアルゼンチンで起こった運動(訳注:経済破綻に始まる一連の市民抗議運動)、反グローバリゼーション運動から着想を得て、ホロウェイはその著作の中で一つの仮定を提起する。「 権威主義的な共産主義の惨敗において反駁されたものは、革命、あるいは世界の変革という考えというよりも、むしろ権力の掌握としての革命、そしてとりわけ、政治的ツールとしての政党という考えである」と。

社会変革についてのもう一つの概念は、そのような運動において、総じて、多かれ少なかれ目に見える全ての実践において暗示されている。そこでは、利益の論理、資本主義に亀裂をいれるという論理とは異なる論理が継続している。つまり、拒絶する社会そのものの内部において、すでに異なる世界を思い描いている場として、活動の空間、時間、あるいは領域を作りだすというものだ。運動における反逆ということ。このように状況を見ると、組織の問題はもはや、政党を組織することと同じではなく、資本主義という生地をほどきつつある異なる亀裂をどのように認識して、繋げるのかということとなる。

しかし、アルゼンチンの「みな立ち去れ」の後にはキルチネル政権が到来し、「私たちの代表ではない」の後にはPodemosが現れた。私たちはプエブロ市(メキシコ)でジョン・ホロウェイと会った。10年後も、その間に起こった―ラテンアメリカでの進歩的な政権から欧州でのPodemosとSyrizaまで―あらゆる出来事の後で、 存在し増えていくために自主組織の実践には様々な問題があることを経験しても、「権力を取らずに世界を変える」ことは可能だと考え続けているのかと聞いてみるために。

―ジョン、最初に君に質問したいのは、 20世紀に支配的であった革命という考え、つまり権力の掌握を通じて社会を変革するという考えは、どこからやって来て、どこにあったのかということです。

ジョン・ホロウェイ(以下JH):中心的要素は労働だと考えています。私は労働を賃労働として理解しています。つまり、譲渡された、あるいは抽象的な労働です。賃労働は、労働組合運動、その政治的な翼であった社会民主主義の政党、そしてまた共産主義運動の基礎でありましたし、現在もそうです。その概念が労働者運動の革命論を形成しました。賃労働対資本の闘いというものです。しかし、その闘いは限定されたものでした。なぜなら、賃労働は資本を補足するものであって、それを否定するものではないからです。

―その労働という考えと、国家権力の掌握を通じた革命という考えの間の関係性がわかりません。

JH:そのつながりを理解する一つの方法は、次のようなものです。賃労働、あるいは譲渡された労働とする労働の定義から出発すると、労働者を犠牲者や支配のシステムの対象物とする考えから出発することになります。そして、(犠牲者や対象物とみなされた)労働者の生活条件改善のために闘う運動は、直ちに国家に委ねられるのです。なぜでしょうか? 国家は、それがまさに社会から切り離されていることにより、人々のために利益を獲得することを求めるのであれば、理想的な制度なのです。このように考えるのが、労働者運動の系譜や現在ラテンアメリカにある左派政権の系譜です。

―しかし、解放の政治を考えるための唯一の系譜というわけではありません…。

JH:もちろん、ちがいます。この20年か30年において、私たちは別のことを肯定するたくさんの運動と出会いました。もう一つの方法で行うこと、私たちに有用で必要だ、行う価値があると思えることや、利益の論理に服従しない活動を行うことができる場としての亀裂を開けながら、譲渡された労働という人間の活動からの解放という可能性です。

そうした亀裂は特別なもの(もう一つの社会関係が生まれる場)かもしれないし、一時的なもの(「このイベントにおけるこの場、一緒にいる間、私たちはもう一つの方法で物事を行い、もう一つの世界に向かう窓を開けよう」)、もしくは個々の活動や方策に関するもの(例えば組合や、水、ソフトウェア、教育などに関して非商業的な論理に従う活動)かもしれません。この世界、そして私たちの一人一人が、こうした亀裂で溢れているのです。

譲渡され、譲渡する労働に対する拒絶は、同時にそこから生じる制度や組織の構造や思想に対する批判を含みます。このようにして、サパティスタからギリシャやスペインのインディグナドス(怒れる者たち)まで、あまたの現代の運動の中に見出すことのできる労働組合、政党、国家に対する拒絶が説明できます。

―しかし、私には、古い政治と新しい政治の間の対立というものではないように思えます。なぜなら、危機の運動において私たちが目にしているのは、この二つのものが同時に起こっているということだからです。広場のような亀裂、そしてまたSyriza、あるいはPodemosのような新しい政党です。

JH:私は、資本主義における私たちの経験が矛盾するものであることの反映だと考えます。私たちは犠牲者であると同時に、そうではありません。私たちは労働者として私たちの生活条件を向上することと、そしてまたその先に行くこと、他の方法で生きることも求めているのです。一方で、私たちは事実上、生き残るために労働力を売らなければならない人間です。しかし、その一方で、私たちの一人一人には、資本主義的な労働の定義に収まりきらない夢や行動、計画があるのです。

難しいのは、かつても今も、この二つタイプの動きの間の関係を考えることです。どうすれば、その関係がいつものセクト主義の再生産を回避することができるのか、どうすれば、二つの観点の間の根本的な違いを否定することなしに、有意義な関係にできるのか。

―2001年と2002年のアルゼンチン、もっと近いところでは、ギリシャとスペインのインディグナドス…。ある瞬間に下からの運動は停止して、危機、あるいはフィネスに入り、破壊されます…。亀裂の政治には継続し、発展するのに内在する限界があると言えるのでしょうか?

JH:私なら限界ではなく、問題と言うでしょう。10年前『権力を取らずに世界を変える』を出版したときには、下からの運動の成果や可能性の方が目についていましたが、現在の私たちはその問題にもっと自覚的です。君が挙げた運動は巨大な無力感の希望の灯台ですが、資本主義は存在し続け、ますますひどくなっていて、ますます多くの貧困と破壊をはらんでいます。私たちは、運動の勝利を歌うだけに留まっていることはできませんし、それで十分ではないのです。

―それでは、回答は、国家に向かって焦点を合せるという選択肢となるのでしょうか?

JH:なぜ人々がもっと先に行きたがっているのかは、理解されています。とても良く理解されています。 凄まじい闘いの年月でしたが、資本主義の襲撃はそのまま続いています。私は、PodemosとSyrizaが選挙に勝つことを心から望んでいます。それが現在の社会闘争の万華鏡を変えることになるでしょうから。しかし、私が全力で国家という選択肢に異を唱えることには変わりありません。

このタイプの政府はいかなるものであっても、制度的ルートの内部に熱望と闘争を誘導することを意味し、それは必然的にこうした運動が表現する怒りと資本の再生産との和解を模索しなければなりません。なぜなら、あらゆる政府の存在は、資本の再生産を促進する(外国資本や他の方法で資本を引き寄せる)こととなり、それ以外はありえません。これは不可避的に資本である襲撃へ参加することを意味します。これがすでにボリビアやベネズエラで起きたことで、ギリシャやスペインでもまた問題となるでしょう。

―おそらく、政府という制度へ向かう運動で、下からの運動を補完するということでしょうか?

JH:何度も繰り返されている明白な回答です。しかし、この明白な回答の問題点は、矛盾を排除しているということです。物事を和解させることはそれほど容易ではありません。おそらく、上から人々の生活条件を改善することはできるでしょうが、資本主義と決別して、他の現実を生み出すことができるとは、私には思えません。そして、率直に言って、今私たちは資本主義の中に全人類のための長期的な解決策はないという状況に いると、私は思っています。

私は国家という選択肢を除外しません。私には提示する回答が何もないからです。しかし、それが回答だとは思っていません。

―君はどこに、その回答を探していますか?

JH:左派政党を敵とみなさないで、もちろん私はそうではありませんが、回答は亀裂を深化させる局面において考えなければならないと言えるかもしれません。

私たちが人類の絶滅を受け入れないのであれば、それは可能な現実として資本主義のアジェンダにあるように私には見えますが、唯一の代替案は私たちの動きがもう一つの世界の誕生であると考えることです。亀裂を構築しながら、それを認識し、力を与え、発展させ、連結する方法を模索して行かなければならないのです。亀裂の融合、もしくは相互連結を模索することです。

国家や選挙という局面を考えると、私たちはそれから逸れてしまっています。なぜなら、PodemosやSyrizaに状況を改善することはできますが、資本主義の理論の外部からもう一つの世界を創造することはできません。そのことが問題だと考えています。

―最後に、ジョン、今まで話してきた二つの観点の間の関係をどう考えていますか?

JH:尊重し合いながら継続的な議論を維持すること、同時に違いや矛盾を排除しないことが必要です。対話のベースは次のようなものになるでしょう。誰も解決策を持っていない。

今のところ、資本主義を廃止するに十分な力が私たちにはないことを認識するべきでしょう。やむを得ずに私はここで、賃労働に依存せずに生きる方法を構築することに言及します。「実際のところ仕事があろうとなかろうと私は気にしない。仕事がないのなら、自分に興味があって、尊厳のある生活を送るために十分なものを与えてくれる他のことに、人生を捧げることができるから」と言うことができるように。今現在はそうではありません。多分、私たちは「くたばれ、資本」と言う前に、それを構築しなければならないのでしょう。

この意味では、私たちはフランス革命の前条件が、あるときブルジョワのソーシャルネットワークが、存在するためにもはや貴族階級を必要としなくなったことであったことを、私たちは考えるべきでしょう。同様に、「世界資本がスペインに投資しなくても構わない。なぜなら、私たちは尊厳を持って生きるために十分な助け合いのネットワークを構築したのだから」と言えるような点に到達するために活動することを目指すべきです。

今日、銀行に対する怒りは世界中に広がっていますが、問題は銀行ではなく、社会関係としてのお金の存在だと私には思えます。お金に対する怒りをどのように考えますか? これは必然的に金銭化されず、商品化されない社会的関係の構築となると思います。

新聞に出ることはありませんが、願望、信念、あるいは必要性からそれに身を捧げている人たちは、とてもたくさんいます。 共同体や社会の別の在り方、そしてもう一つの生活を創造するための人類の技術や手腕を考える別の方法を構築しているのです。

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