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注:諸事情から翻訳公開までに2ヶ月近く経過してしまいましたが、ル・モンド・ディプロマティク・スペイン語版2015年10月号に掲載されたものです。

「完全統制」下にある世界という考えは長い間ユートピア的、あるいはパラノイア的な妄想、陰謀という強迫観念に取り憑かれた者が抱く類いの想像の産物と思われてきた。しかしながら、明白な事実を受け入れなければならない。私たちは今ここにおいて、一種の監視の帝国の眼差しの下で生きているのだ。気がつくこともないまま、日増しに私たちは観察され、見張られ、監視され、統制され、記録される。毎日、私たちの痕跡の追跡において新たなテクノロジーが磨き上げられていく。商業企業や広告代理店は私たちの生活を記録する。しかし、とりわけ、テロや他の害悪(児童ポルノ、資金洗浄、薬物の違法取引)と闘うという口実の下で、政府―最も民主的なものも含めてーは自らビッグブラザーの地位に就いて、さらに効果的に私たちを見張るためなら、もはや自らの法を犯すことも躊躇しない。新たなオーウェル的国家はこっそりと、様々な電子メディアに現れているままの形で私たちのコンタクトと個人データを網羅する調査票を作ろうとしているのだ。

数年前からニューヨーク、パリ、ボストン、オタワ、ロンドン、マドリッドといった都市を襲撃するテロ攻撃の波を経て、当局は監視を強化して、私たちの私生活に対する保護をさらに縮小するために、動転した社会が抱える巨大な恐怖感を利用することを躊躇しなかった。

確認しておこう。問題なのは監視全般ではなく、違法な大規模監視である。民主国家において、法律に基づいて事前に裁判官の許可を得れば、当局は完全な正当性を有もって疑わしいとみなされる人物を監視下におくことができるのは明らかだ。エドワード・スノウデンが言うように「ウサマ・ビン・ラーデンを盗聴しようとするのには何の問題もない。捜査官が裁判官―独立を保った裁判官、本物の裁判官であって、秘密の裁判官ではないーの許可を得なければならず、令状を発効する十分な理由が存在することが確認されるのであれば、いつでもそのような任務を実行することができる。問題となるのは、いかなる正当な理由もなしに四六時中、私たち全員をまとめて統制しようとしたときだ[1]」。

日増しに完成度を高めるアルゴリズムの助けを借りて、何千という調査官、エンジンニア、数学者、統計学者、情報科学者は、私たちが自ら生み出す自分自身に関する情報を探して分類する。宇宙からは突き刺すような眼差しの衛星やドローンが私たちを追跡している。空港のターミナルでは、バイオメトリックスキャナーが私たちの歩みを分析し、私たちの虹彩や指紋を「読み取る」のだ。赤外線カメラが私たちの体温を計測する。ビデオカメラの物静かな瞳が街の歩道で、あるいは巨大スーパーの通路で私たちを詳細に観察している。そしてまた、職場、路上、バス、銀行、地下鉄、スタジアム、駐車場、エレベーター、ショッピングセンター、道路、駅、空港…でも、私たちの跡を追っている。

私たちが体験している想像もできないようなデジタル革命は、すでに数多くの活動や職業を変えたが、情報サービスと監視の分野もまた完全にひっくり返したことは指摘しておいていいだろう。インターネットの時代において、監視はどこにでもつきまとうが、全く実体がなく知覚不可能な上に「探知不可能」で不可視のものとなった。さらに、技術上は驚くほど簡単になったという特徴がある。 ケーブルやマイクの設置という左官の仕事は消滅した。有名な映画『The Conversation』[2]の中でのように、監視技術を謳う見本市で「配管工」のグループが電気ケーブルが溢れんばかりにつまった箱を備えて製作され、壁や床の中に隠さなければならない「告げ口屋キット」 を紹介するのを目にすることはないだろう…。

その時代には派手なスキャンダル―米国のウォータゲート事件やフランスの「カナール・アンシェネ(訳注:風刺週刊誌)の配管工」事件ーの数々、諜報機関にとっては屈辱的な失敗の数々が、こうした機械的で探知や設置場所の特定が簡単な旧式のメソッドの限界を示していた。

今日では、誰かを盗聴することは当惑するほど容易いものとなった。思い立てば誰にでもできる。どこにでもいる普通の人が周りにいる誰かをスパイしたいと思えば、店頭で自由に販売されている幅広い選択肢を目にすることができる。SMS、メール、Facebook、Whatsapp、Twitterのアカウントなど携帯電話の中身を「読み取る」スパイ用ソフトウェア(mSpy、GsmSpy、FlexiSpy、Spyera、EasySpy)は半ダースを下らない。オンライン消費のブームとともに商業目的の監視もまた大幅に発達して、私たちの個人データを商品に変える巨大な市場を生み出した。毎回私たちがサイトに接続する間、クッキーが実行した検索を全て保存して、私たちの消費者プロフィールの作成を可能にする。2万分の1秒以下で、訪問したサイトの制作者はクッキーによって明らかになった私たちに関する情報を広告主になりそうな相手に売りつける。わずか2万分の数秒後には、私たちに最もインパクトを与えると仮定される広告が私たちのスクリーンに現れる。このようにして、私たちは完全に記録に残されることになる。

ある意味で、監視は「民営化」され「民主化」された。もはや、国家の諜報機関だけしか関わることができない問題ではないのだ。しかし同時に、大規模スパイに関する国家の能力が目に見えて増大した。そして、これはまた、(国家が)情報産業や通信業界を支配する巨大な民間企業との間に築いた緊密な共犯関係が原因でもある。ジュリアン・アサンジはこう断言する。「Google、Apple、Amazon、最も新しいところでFacebookといった新しい企業は、ワシントンにある国家組織、とりわけ外交の責任者たちと密接な結びつきを編み上げてきた」[3]。この安全保障とデジタル関連の複合体ー国家+安全保障軍事組織+巨大なインターネット企業ーは正真正銘の監視帝国を築いている。その目的はインターネット全体とネット使用者全員をスパイするという具体的かつ明白なものだ。社会を統制するために。

40歳以下の世代にとってネットは単に、自分の考えや興味のあるもの、好きなものや個性を公にする場となるエコシステムでしかない。彼らにしてみれば、インターネットは具体的な作業のために用いられる自律的なツールというだけではない。自由自在にあらゆる知識を探求することを学ぶ巨大な知的領域でもある。そして同時に境界線のないアゴラであり、人々が集って対話や交換を行い、ときには共有という形で文化や知識、価値観を入手するフォーラムでもある。

また、こうした新世代の目にインターネットは、上の世代にとって学校や図書館、芸術や百科事典、ポリスや寺院、市場や協同組合、スタジアムや舞台、旅やゲーム、サーカスや娼館であったものを意味している。「個人、彼はテクノロジーの宇宙で進化することに歓喜していて、彼自身を機械が日々管理していることを知ろうと心を砕くことはないのだから、それを理解しようとするはずなどない。その一挙手一投足が記録され、フィルタリングされ、分析され、おそらくは監視されていることも。そして、物理的な障害からの解放にははるか遠く、通信の情報処理が人類に創造可能とはとても信じられないほどの監視と統制のツールとなっていることに疑問の余地がないことも」[4]

このインターネットを完全に統制するという試みは、私たちの民主社会にとって前代未聞の危険を意味する。「インターネットの監視を許すことは、実質的に人間の思考そのものを含めてあらゆる形式の人間の相互作用を国家の徹底的な統制に委ねるのと同じことになる」と、エドワード・スノウデンのリークを広めたジャーナリスト、グレン・グリーンウォルドは語る[5]

これが以前に存在していた監視システムとの巨大な違いである。ミシェル・フーコー以来、監視は現代社会組織において中心的な位置を占めることを私たちは知っている。これこそが、権力が技術と監視の複雑な戦略を通じて可能な限りの社会統制を行使しようとする「規律社会」[6]なのだ。

このような市民について全てを知りたいという国家の意志は、社会の官僚的行政を効率的に行うという約束によって政治的な正当性を得ている。そうすれば、国家はさらなる競争力を有するようになり、従って、可能な限り深くまで知り尽くすことで、もっと良く市民に仕えるようになるだろうと言う。しかしながら、日に日に侵害が増大したために、ずいぶん前から私生活という聖地を大切にする市民の間で国家の侵害に対する拒絶が増加してきた。アレクシ・ド・トクヴィルはすでに1835年から、現代の大衆民主主義は自らの権利の保護を最大の懸念とする一般市民を生み出すと指摘していた。そして、これによって(一般市民が)国家の侵害と濫用の目論みに対して敏感になり、けんか腰になることも[7]

米国に無慈悲に追い回されているジュリアン・アサンジやエドワード・スノウデンのような「ホイッスルブローワー」の中で、この伝統は今日まで続いている。そして、彼らを擁護して、米国の知の巨人ノーム・チョムスキーは「このような『ホイッスルブローワー』にとって、彼らの自由で透明性のある情報のための闘いは生まれつきと言えるようなものです。彼らは成功するでしょうか? それは人々次第なのです。スノウデン、アサンジといった人がそのような行動をとるとき、彼らは市民としてそれを行っているのです。彼らは人々が自分たちの政府が何をしているのか突き止めるのを手伝っています。自由な一市民としてこれ以上に高潔な仕事が存在するでしょうか? にもかかわらず、彼らは厳しく罰せられています。もし、ワシントンに彼らを取っ捕まえることができるとしたら、もっとひどいことになるでしょう。米国には第一次大戦中に遡るスパイ法があります。オバマはアサンジやスノウデンが拡散した情報が人々に届くのを避けるためにこれを利用しました。政府は『主要な敵』から身を護るためには、とても信じられないようなことも含めて、ありとあらゆることを試みるでしょう。そして、どんな政府にとっても『主要な敵』は自国民なのです」[8]

インターネットの時代には、国家の統制は目も眩むような規模に到達している。すでに言及したように、 職業的なものであれ、感情的なものであれ、私たちは何らかの形で私的かつ内面的な考えをインターネットに委ねているからだ。こうして、超強力なテクノロジーの助けを借りて国家が私たちのインターネットの使用をスキャニングしようと決めるならば、その職権を越えているだけではなく、さらには私たちのプライバシーを犯し、文字通り私たちの心を剥ぎ取り、私たちの私生活の安全地帯を略奪しているのだ。

知らないうちに、新たな「監視国家」の目前で、私たちは映画『トゥルーマン・ショー』[9]の主人公のクローンと化す。何千というカメラが見つめ、何千というマイクが耳を傾ける中、諜報機関の地球規模の好奇心の前に私たちの私生活を生中継で披露しているのだ。

これに関して、インターネットの発明者の一人ヴィントン・サーフは「現代のデジタルテクノロジーの時代において私生活は異常なものである…」とみなしている[10]。インターネットの先駆者の一人レナード・クラインロックはさらに悲観的だ。「基本的に私たちの私生活は消滅してしまった。言ってみれば、それを取り戻すことは不可能だ」と考えている[11]

一方では、多くの市民があたかも時代の運命であるかのように、私たちの匿名の権利の終焉に甘んじている。他方では、私たちの私生活を護るという懸念が反動的あるいは「疑わしい」ように見える可能性がある。公的な統制を回避しようとするのは、何か隠し事がある者だけだからだ。従って、やましいことや隠すべきことは何もないとみなす人々は、国家の監視に敵対しない。とりわけ、当局が約束して、繰り返すように、これに安全に関して重要なメリットを伴われているのであれば。しかしながら、この論調―私に君たちの自由を少しだけよこせ、安全保障で100倍にして返してやるから」ーは詐欺である。完全な安全は存在しないし、存在するはずもない。インチキなのだ。にもかかわらず、「完全統制」は議論の余地のない現実となった。

あらゆる権力の常套句である安全という詐欺に対して、米国憲法の起草者の一人ベンジャミン・フランクリンが発した明晰な警句を思い起こそう。「少しの安全のためなら自由を少し犠牲にしてもいいと考える民衆は、一つ目にも二つ目にも価しない。二つとも失うことになる」。

完全に現在でも通用する格言であり、私たちに私生活の権利を護る気を起こさせてくれるだろう。その主要な役割とは、私たちのプライバシーを護ることに他ならない。啓蒙思想家で最初にプライバシーを「発見した」人物ジャン=ジャック・ルソーが私たちの模範となる。彼こそが、当時の社会、そして個人の意識を統制しようとする異端審問のような社会の意図に逆らった最初の人物ではなかったか?

「私生活の終焉は、存在にとって正真正銘の悲運となりうるだろう」と現代思想家ハンナ・アーレントも同様に著作『人間の条件』[12]において強調した。並外れた洞察力で、彼女はその作品において生活の公私の区別が不十分な形で定められる社会は民主主義にとって脅威となることを指摘した。アーレントによれば、これは自由人の終焉を意味することになる。そして、これが容赦なく私たちの社会を新しい形式の全体主義へと引きずっていくことになるであろう。

(翻訳・海老原弘子)

[1] Katrina van den Heuvel & Stephen F. Cohen『Edward Snowden: A ‘Nation’ Interview」(The Nation、ニューヨーク、2014年10月28日)。

[2] 邦題『カンバセーション…盗聴…』(1973年製作)。監督:フランシス・フォード・コッポラ監督、出演:ジーン・ハックマン、ジョン・カザール、シンディ・ウィリアムズ、ハリソン・フォード、ロバート・デュバル。1974年のカンヌ映画祭パルム・ドール受賞。

[3]イグナシオ・ラモネ「ジュリアン・アサンジへのインタビュー:Googleは私たちをスパイし、米国政府に報告している」(ル・モンド・ディプロマティク・スペイン語版2014年12月号)

[4]  Reg Whitaker『Tous fliqués. La vie privée sous surveillance』(Denoël、パリ、2001年)に寄せたJean Guisnelの序文より。

[5] Glenn Greenwald『No place to hide. Edward Snowden, the NSA, and the US Surveillance State』(Metropolitan Books、Nueva York、2014年)

[6] ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977年)

[7] アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』(松本礼二訳、岩波文庫)

[8] イグナシオ・ラモネ「ノーム・チョムスキーへのインタビュー:監視帝国に対抗して」(ル・モンド・ディプロマティク・スペイン語版2015年4月号)

[9] 『トゥルーマン・ショー(The Truman Show)』 (1998年)。監督ピーター・ウィアー、出演ジム・キャリー、エド・ハリス。

[10] Marianne(パリ、2015年4月10日)

[11] El País(マドリッド、13 de enero de 2015年1月13日)

[12] ハンナ・アーレント『人間の条件』志水 速雄訳、ちくま学芸文庫、1994年)

Los nuevos Estados de vigilancia – Ignacio Ramonet

(ル・モンド・ディプロマティク・スペイン語版2015年10月号)

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