シルビア・フェデリチ:家事労働とは労働力を再生産するものだ

ーフェミニズム、奴隷制、ワーキングプア、女性の身体、マルクスー

先日の記事で予告したフェデリチのインタビューの後編です。2014年11月にEspaiFàbricaに掲載されたものを許可を得て翻訳しました。前編はこちらから)

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―『Can the Subaltern Speak?(サバルタンは語ることができるか?)』とガヤトリ・C・スピヴァクは問いかけました。この意味では、私たちは奪われた者たちに、自らの存在の中にヒエラルキーの行使を含んでいるこうした人びとに、声を与えるという矛盾をどのように克服することができるでしょうか? (この矛盾の克服は)彼らが自分の運命を決める能力と行動力を有する政治的主体となるためには不可欠です。どのように私たちはこの垂直性を水平性に変化させることができるのでしょうか?

実は、私にはスピヴァクの問題を理解できないのです。私の考えでは、サバルタンは絶え間なく語っていて、私たちはそれに耳を傾けています。私は今72歳で、その内の40年は運動に関わってきましたが、下からの運動に由来するもの以外で興味深いアイデアを見たことがありません。これは本当です。例えば、家事労働の賃金の話をするときにも、私ならこの50年間で論理的・政治的に最も重要な変革の一つは、第一に反植民地主義の闘いの成果であったと言うでしょう。これが決定的であったことには間違いありません。また、自らの要求を掲げたアフリカの農民たちとその闘いがあります。これらは後に練り上げられて、もっと洗練された理論になりました。例えば、フランツ・ファノンのケースなどです。しかし、突き上げる力は、労働の国際的な分断を揺るがしたこうした偉大な闘いから出現しました。大きな変革となったのは土地の要求を掲げた農民たちの変革であり、工場での変革でした。そして、こうした下からの大きな運動の基礎に関して、後から知識人たちが一つの思想を作り上げるのです。

米国のフェミニズム運動やWages for Housework (家事労働に対する賃金)運動の歴史を見れば、こうしたことがはっきりとわかります。この運動は米国の奴隷制反対運動の直後に動き始めました。なぜなら、(女性たちは)つながりを確立して、奴隷制反対運動に奴隷制という用語の中に自らの状況を見出す能力を付け加えたのです。もちろん、異なる性質を有していましたが。ここから力を奪い取るという意味に辿り着いた彼女たちは、実行に移すことを決意しました。

このようにして、Wages for Houseworkは生活保護で生活していた女性たちの闘争の周辺で設立されました。米国ではこうした女性の大部分は白人だったものの、本当の意味で闘ったのは60年代のWelfare Mothers 運動(生活保護で暮らす母親)の女性たちです。これは主に黒人女性から成る運動でしたが、ブラックパワー運動や公民権運動などの貢献もありました。彼女たちは国家と交渉を始めて、生活保護を変革し、子育ては慈善ではなく仕事であると主張し始めました。そして、理論も確立しました。私たちがWelfare Mothers運動について議論を行うときにはいつも言及する理論です。従って、私たちが彼女たちに声を与えたのではなくて、彼女たちが私たちに声を与えてくれたのだと私は思っています。少なくとも、これが私自身の経験です。

ー奴隷制について話しているところで、賃金労働者の貧困、あるいはバーバラ・エーレンライが『Nickel and Dimedi(邦訳『ニッケル・アンド・ダイムド -アメリカ下流社会の現実』)』や 『Bait and Switch(邦訳『捨てられるホワイトカラー』)』で描いたワーキングプアについてどう考えますか? この現象は解放へ繋がるドアとして労働市場へのアクセスに期待することに明らかな矛盾があることを意味し、実際には女性に対して二重の奴隷制を課し、そうすることで女性をさらに上手く支配するためのツールとなっています。

私が属している運動、Wages for Housework運動は、常に賃金労働を通じた解放という考えに反対してきました。もし賃金労働が解放を達成する唯一の方法であれば、男性はすでに解放されているでしょう。この論理は、男性労働者は搾取されていないと仮定することを意味します。私たちが戦略的に賃金労働を受け入れているのは、その必要性が存在しているからです。しかしながら、これを政治的戦略にするのは大失敗でした。第一に、資本主義とは何か、賃金の機能は何かということを隠してしまうからです。賃金は非常に危険なツールなのです。私たちが賃金を必要としてもいいのですが、 まさに賃金こそが資本家階級に人びとを分断することを可能にしてきた方法という点には十二分に注意しなければなりません。そして、これは再生産の分野で多分に起こっており、 この古い搾取の構造を維持するために再生産労働が果たしている機能を見えなくすると考えられます。

30年後の今日、米国の女性の60%が賃金労働の担い手となりましたが、二重の労働で絶え間ない危機に晒されています。 再生産の問題は危機的な状況であり続けており、高齢者の介護、子育て…と仕事があまりにも多すぎるために、女性が抗うつ薬の主要な消費者となっています。自殺未遂の数もまた継続的に増加しています。再生産労働の分野はすべて、重大な危機の真っ直中にあります。女性が二つも三つも仕事を掛け持ちしているのを見かけます。ときには三つの職が必要になるからです。こうした女性たちは子どもや高齢者の世話で身動きができない上に、賃金労働にも従事しなければならなりません。こんな生活を想像してみてください! 私はこうした全ての領域で活動している女性をたくさん知っていますが、抗うつ薬をとることを必要としています。なぜなら、彼女たちの生活は…。

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―生きる価値のない生活と化す、でしょうか?

まさにその通りです。米国はあらゆる再生産への支援をカットするところまで来ています。出産休暇すらないのです。確か米国は、世界で出産休暇のない三つの国の一つだと思います。賃金労働と解放の同一視が70年代に果たした機能については言うまでもありませんが、ちょうど同じときに男性賃金労働者の側からの大規模な労働拒否が起こっていました。ちょうどその頃、女性とフェミニストは賃金労働を女性の解放のためのプラットフォームとみなし始めていました。

こうして、女性が労働市場に参加し始めた同じ時期に、あらゆる種類の補助金に対して凄まじい攻撃が起こって、雇用をある種の生活保障としていたものすべてが廃止されていったのです。女性が労働市場に参加したのは、こうしたもの全てが解体されつつあったときでした。私たちにこれが見えなかったこと、進行中の再編成に気がつかなかったために、私たちの闘いと男性賃金労働者の闘いの間の連続性を見出せなかったことは、極めて重大な戦略上の過ちでした。私たちはいまだにそのツケを支払っています。

―ハンナ・アーレントが『人間の条件』で言及したような労働の賛美、または欲望、感情、非生産的な活動といった反生産的とみなされる要素を拒否することへの賛美をどう考えますか? ポール・ラファルグが『怠ける権利』で提起した提案は、こうした賛美に対する一つの解決策や女性がもっと自由な時間を持てるようにする方法になりうると思いますか?

ラファルグ自身が大変に怠け者でした。実際にその妻が彼の十倍彼のために働き、若くしてこの世を去った一方で、彼は生涯一度も働く事がありませんでした。私なら怠ける権利についてではなく、創造的な活動の権利について語るでしょう。多くの側面において資本主義の主要な罪の一つは、子育てのように潜在的に極めて創造性の高い労働を、依存という惨めな状況で行う単調で退屈な恐るべきものに変えてしまったことです。それはあらゆるタイプの活動を取り戻すこと、疎外的にも個別的にも集団的にもならない方法で自ら再生産する能力を取り戻すことだと、私は考えています。こうしたものをこの目で見る事ができたらいいですね。

ーでは、スペインの中絶の権利に関する法制上のカットについて話しましょう。「妊婦と胎児の保護のための法律」という名称になっていますが、「資本主義的な労働力保護のための法律」と呼んだ方が適切でしょう。この名称自体が示すところによると、この法律は女性を労働力再生産の道具とみなしています。だから、これを保護する必要性があるというわけです。この法律は私たち女性から身体に関する決定権を奪うことで、その身体を国有化することになります。まさに公的サービスの大部分が私有化されている歴史的瞬間に、社会的な再生産が国家の支配下に置かれるのです。

私も全く同じ解釈をしています。こうした全ての偽善は、あまりにも重大で一種のスキャンダルと言えるほどです。未だに(女性を護るためにという口実で)労働力生産の源に対して資本が持つ権利という観点から作られた、完全に女性嫌悪的なこのような法律を承認しようと言うことができるなんて。世界の女性の半分を不妊にしようとする一方で、もう半分に中絶、または妊娠をコントロールする何らかの手段を持つことを禁ずるのは、全くの偽善です。このことが、問題は生命の保護ではなく、女性の身体に関する決定権は自分たちのものだと主張することだと明らかにしています。

こうした身体を生産の道具とみなしており、だから、いくつ、いつ、どんな性質で、どのような条件で生み出すのかを決める者となることを望むのです。つまり、一連の権利を彼らに与えてインドの女性を不妊にするのと同じ人たちが、今度は中絶の権利を女性から奪うのです。このことをいつも念頭に置いておくことは非常に重要だと思います。資本主義の歴史を通じて、国家は常に子宮と身体のコントロールに乱暴に介入してきたのですから。

この偽善について語るのに、米国の例を挙げたいと思います。米国ではドローンに殺害された子どもや世界の資源をコントロールするために企てられた数々の戦争で死んだ全ての子ども、あるいはスペインやギリシャのように親が失業していたり、給与が30%カットされたりする子どもは一切問題にはなりません。こうしたケースにおいては子どもの保護は消え去り、人びとは住む場所を失います。そして、生命の保護は子宮で終わるのか?と私たちは自らに問いかけることになるのです。これが、彼らの政策を全て分析した後にいつも辿り着く結論です。

―魔女狩りの時代には、恐怖が女性を服従させるための主要なツールでした。現在では、美しさやロマンチックな愛という神話的通念といったもっと巧妙な手段があり、それによって女性は自発的に下位の社会的ポジションを受け入れます。

フェミニズム運動は美しさというコンセプトの脱神話化に大きく貢献しました。そうなる可能性が高いとはいっても、女性にとって美しさは「選ぶこと」でも、私たちの身体を飾るときにだけ発揮される創造性でもないことを示したからです。実際、女性にとって美しさは、日々の労働の一部を構成しています。セクシャリティも同じです。賃金労働者の再生産の全過程を構成する要素の一つだからです。このことによって、女性は料理をするだけでなく、セックスをして、喜びも提供しなければならないのです。全ては隠された契約の一部を成していて、だからこそ、女性とその身体の関係性はこれほどまでに自主性を奪われたものとなったのです。美しさは結婚市場に参入するための手段で、これがダイエットや化粧などとともに、大幅に自主性が奪われた私たちの身体との関係を生み出してきました。

現在、これはかつてないほどに有効に作用しています。なぜなら、不運なことですが、私たちが始めた闘争を若い世代が継続していない分野において、このことが確認できると思っているからです。私たちは、手入れをしていない身体に、脚や脇の毛をそのままにしておくことに、大きな誇りを持っていました。それに対して、今、若い女性と話をすると、脱毛していな脇を見せることは生涯ないと言って、私の世代にはとても考えられなかったような話を説明してくれます。私たちは、完全な植民地化に直面しています。美しくいる義務は、家事労働の規律の一部であり、男性との関係に関連した規律に加えられるのです。

ロマンチックな愛は大きな罠です。ロマンチックな愛は「一つになること」を意味し、溶け合ってもう一つの人格になるという崇高な考えに基づいていますが、現実にはあなたが男性の中に消滅してしまうのです。この「一つになること」が現実に意味するのは、女性的なものが一体性と仮定されるものの中に溶け込むことで、ヒエラルキーにほかなりません。いずれにしても、ロマンチックな愛は、米国で起こったある変化によって危機にあると思っています。欧州も同じかどうか私には全くわかりません。米国では現在、若い女性の間に大きな混乱があります。ロマンチックな愛よりも大きな疑念が存在しているのです。若い女性たちは愛が果たす役割を知りません。頭では個人でいなければならないと信じています。これは、職業的なキャリアなどを中心にして自己を築く女性という考えに従ってフェミニズムを解釈したものです。このため、かつてほどには愛や家族、これら全てを両立させようという考えが存在していないことがわかります。もちろん(そうありたいという)欲望は存在し続けていますが、 それとは異なる「現実には愛はそれほど重要ではない」という社会的イメージによって変化しています。

私たちは家事労働者として、あるいは実際に実践するのは不可能である全ての役割をこなす者として女性を称揚するタイプの父権制ではない、新しいタイプの父権制を前にしているのだと思います。結局、男性賃金労働者と結びつく役割が優先されるのです。言い換えれば、女性という概念が示すものが男性に変身する女性、時間の50%は男性として過ごし、残りの50%を女性として過ごす女性となっています。女性であることを放棄せずに、仕事場でも女性でいなければならないのです。70%を男性として過ごすことはできないのですから。結局、女性には極めて困難な曲芸を行うことが要求されます。こうしたもの全てを愛で片付けるのは不可能なところにきている。私にはこのように見えます。

―権利を持たない大量の労働者、労使関係の消滅、労働のプレカリアートなどを有する現在の資本主義の段階において、労働組合活動や労働闘争についてどう考えますか? 伝統的な労働組合活動にはまだ意味を持ち続けていると思いますか? 女性や移民、失業者などの要求に応えるには、どのように順応すればいいのでしょうか?

全ての労働組織はもう一度発明し直されて、再び生み出されなければならないと思います。労働組合は完全に資本主義の必要性と一体化しているのですから。全てとは言いませんが、その多くは労働者にとっての障害と考えられています。最近、労働組合が抵抗しなかった大量解雇のケースがいくつもあることを知りました。解雇された人たちは労働者ではなくなるからです。これは無数にある例の一つに過ぎません。この20年、労働組合は反対して闘争する代わりに、雇用センターの解体を進めることに従事してきました。

新しい労働組織を考えるときに、私たちが学ぶべきである非常に重要な教訓があると思います。労働組合や労働者階級に対する国家の関係に変化が現われ始めたー米国ではニューディール政策によるものでしたー40年代より前の労働組織の機能に注目することです。 20年代には雇用センターの役割を果たすだけではない労働組合運動や労働組織がありました。例えば、工場での抗議活動には共同体全体を巻き込むものがあって、工場の職の斡旋だけでなく、労働災害や共同体、住居などの世話も行う労働者組織があったのです。広い意味で共同体と工場の連続性が非常に強かったのです。ある工場やある職場の労働者の一人がストの実施を決めると、全員が動きました。これがパワーとなったのです。しかし、これは失われてしまいました。

労働組合は、日増しに集団交渉という概念の中の一要素に過ぎなくなっています。このことは、力となっている印象を与えるものの、用いられ方が原因で力の喪失にもなっているのです。 共同体の中に有していた支持のすべてが労働力から切り離されてしまっているからです。従って、私たちは歴史を取り戻して、労働者組織の新たなモデルを考えなければならないのだと思います。労働組織は労働力の値段を交渉するだけでなく、資本主義のさらに先を行く見通しを持たなくてはなりません。こうした見通しを決して持つことがなく、完全に資本主義の地平線の下に屈服している労働組合とは違うのですから。

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 ―完全に女性の再生産労働を見落としていたという、あなたのマルクス批判を手短に説明してもらえますか? 特に、この見落としの原因が何であったのかを説明してください。

これは非常に重要なテーマです。なぜなら、マルクスの中に再生産労働に言及した箇所はほとんどないからです。『資本論』全体でマルクスが家事労働に言及している数少ない箇所は、すべて米国の市民戦争の間の家事について語ったものです。良く知られているのは英国の木綿輸出を終わらせるために米国での戦争が必要であったとするコメントで、これによって木綿工場の閉鎖が生じて、女性工員は家事労働に戻らなければならなくなったと述べています。彼は英国の工場の女性工員が再び家事労働についての基礎知識を学ぶようになるためには、戦争が必要不可欠であったと言ったのです。現実には決して彼が(家事労働を)を語ることはなく、それについて語るときには、労働者階級が再生産する方法について述べて、労働力の再生産に言及しました。労働力は自然に生まれるのではなく、生産しなければならないこと、再生産しなければならないことを認めているということは非常に重要ですが、彼は賃金労働の観点のみから労働力の生産と再生産というコンセプトを捉えているのです。食事や住居、衣服などを買うために使う賃金を受け取る労働者です。しかし、工場の外で行われる労働はそこに含まれていません。

どうしてマルクスはこのことに気がつかなかったのか? 私には二つの説明があります。一つは、寛大な方ですが、マルクスが大作『資本論』を書いたとき、再生産労働の大部分は最小限になっていました。労働者の家族は女性も男性も子どもも、四六時中工場で働いていたことから、再生産労働は極限まで縮小されていたのです。実際に、再生産労働の増加が起こったのは19世紀の終わり、工場での女性と子どもの労働を制限する工場法によってでした。この法律は労働者が行った強力な闘争に応えたものです。この対応の影響が出たのが19世紀の終わりの数十年間でした。従って、マルクスが代表作を執筆していた期間の大部分において、再生産労働には全く重要性がなかったのです。

しかし、最大の原因はマルクスがテクノロジーの価値を信じており、共産主義的な社会の創設と解放の過程においては広範囲な産業化の過程を通過しなければ成らず、この大規模な産業化が労働者階級の解放において重要かつ実質的な要因の一つとなるであろうと考えていたからだと思っています。従って、マルクスの頭にあった労働モデルは家事労働を含んでおらず、彼にとっては再生産労働が未来の社会においては、当然に克服されているべきものであったのです。彼は搾取にならない方法で労働力に適用できるような産業化、産業労働と産業の形態に注目していました。この意味では家事労働は全く彼の興味を引かなかったのだと思います。彼は、当たり前のこととみなしていたのです。私の考えでは、マルクスにはある種の男性バイアスがあり、それによってこうしたタイプの労働をあたかも自然なものとみなしたのです。

―それでは、状況は決して変化しないように見えること、男性の仲間と一緒に闘うときにいつも同じ矛盾に突き当たること、彼らが自分たちの闘争に女性の視点を組み入れていないことを踏まえると、闘争の仲間たちへ送るメッセージはどのようなものになるでしょうか?

これは非常に重要な問いです。彼ら(男性の仲間たち)は二つの理由から闘争を妨害していると言えるでしょう。第一に、女性が再生産労働であまりにも忙しいという事実は、闘争に参加できない人が数多く存在することを意味しています。病気の母親や祖母、子どもの世話をしていたら、仕事をしていたら、あなたはデモに行くことも、会議に参加することもできず、こうしたことを忘れてしまいます。第二に、男性が女性に対する暴力、女性嫌悪、女性の身体に対する国家の攻撃などに反対して闘うことが必要なのです。

どうして、あらゆる分野を越えてすべてに介入を行うような、女性への暴力に反対する男性の運動が存在しないのでしょうか? 他の男性を教育しなければならないのは男性なのです。もしそれを行わないのであれば、彼らが闘争を妨害していることになります。私の意見では、これは極めて重要な問題です。そして、彼らは自分たちの闘争を蝕んでいます。女性に対する男性の暴力をこれほど許容する運動では闘争に勝つことも、資本主義に勝利することもできないからです。女性を虐待し、攻撃し、屈辱を与える、あるいは、そのエネルギーと自尊心を吸い取るような方法で女性を扱う男性がいれば、資本家は警察を必要としません。男性がこの問題と向き合うことを始めないのなら、闘争が進まないと文句を言う事はできません。

Silvia Federici: «El treball domèstic és el que produeix la força de treball»

TEXT: Maria Colera Intxausti / PHOTOS: Lewanne Jones

(出典:EspaiFàbrica

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