シルビア・フェデリチ:家事労働とは労働力を再生産するものだ

ー資本主義、女性、家事労働、賃金、父権制、差別、コミューンー

前回の記事で予告したフェデリチのインタビューの前編です。2014年11月にEspaiFàbricaに掲載されたものを許可を得て翻訳しました。

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出版社Traficantes de sueñosFundación de los comunesが企画したフェミニストでマルクス主義者のシルビア・フェデリチのバルセロナ訪問を利用して、EspaiFàbricaのためにマリア・コレラがインタビューを行った。ニューヨークのホフストラ大学教授であるフェデリチは、家事労働の本質と報酬、あるいは、資本主義の発展における重要な要素としての暴力の行使に関する研究で広く知られている。

―『A Caliban and the Witch(キャリバンと魔女)』は、資本が蓄積する過程における重要な要素として女性の搾取に言及しています。女性は最も基本的な資本主義の商品、つまり、労働力の主要な生産者かつ再生産者であったからです。賃金労働者の搾取が定着する上で支柱となったのは女性の無償の家事労働だとあなたは言います。

始めにまず言っておきたいのは、 70年代のフェミニズム運動の最も重要な貢献が女性の家事労働の再定義と再解釈であったことです。家事に対する賃金支払い求める闘争を行い、常日頃から分析されてきた文脈での家事労働の問題を全て検討し直すことを始めた人たちの具体的な貢献のひとつでした。これは特に社会主義の流れの中で目に付くものでしたが、もちろん自由主義の流れにおいて行われました。こうした人たちは、家事労働を資本主義の前段階の世界の遺産でも、社会的な富の創出に貢献しない周縁の活動の一形態でもなく、実質的にそれ以外のあらゆる活動を支えるタイプの仕事とみなすということを始めたのです。

つまりこれは(家事労働が)資本の蓄積の全過程において土台となるということです。総合的に考えると、家事労働とは労働力を再生産するものであり、労働する能力を生産するタイプの労働であるからです。この観点から出発して、私たちは過去の再検討を始めて、資本の蓄積の過程における土台であったこのタイプの労働が、経済活動の外にあるもの、非労働とみなされるようになった状況を理解しようとしました。また、70年代の闘争の間、私たちにとって最も重要な議論のテーマと目標の一つは、これが労働であることを明確にすることだったのです。しかし、それだけではなく、搾取の過程の領域を構築していることも含まれていました。そして、これは男性賃金労働者の搾取よりもさらにずっと強烈な搾取です。私たち女性のものは無償労働なのですから。

これが、女性に何が起こったのか、資本主義の発展過程において再生産に何が起こったのかを理解しようとして、私が歴史的な作業を始めたときに取り入れた観点でした。私はかなり早い段階から、資本主義の貨幣経済がある種の分離、 経済活動のある種の分岐を生み出すことに気がつきました。現実にはこれ(経済活動)が社会的なものから切り離されることは決してないにもかかわらず、古典的な労働とみなされ、資本主義においては賃金労働に変化する「市場向けの生産( 商品の生産)と、労働をみなされることをやめ、女性の労働と同一視されるようになった「労働力の再生産に分けられるのです。こうして(労働力の再生産)が女性化されます。

資本主義の始まりから、ジェンダーによる労働の分担が生まれることが見受けられます。労働を実行する主体に従って生産と再生産に分けて、違うタイプの関係を生み出すのです。この観点から私は、二世紀以上に渡って続き、欧州での資本主義の強化において決定的なものとなった魔女狩りの過程を改めて提起しました 。実際、女性労働者を非労働者、資本主義的な見地からは何の価値もない労働力の人間として再定義し、再構築するためには、この女性から力を剥奪する過程が極めて重要だったのです。これが、世界経済の再構築の結果として起こった出来事を分析するときに、私が用い続けている観点です。

Entrevista

ー最初の資本の蓄積と資本主義の出現が起こる前に、父権制(=家父長制)が構築された過程について説明してもらえますか?

資本主義は、ジェンダーによる差別を行った初めての制度ではありません。父権制を一般化させないこと、地球上の全ての社会が父権制の社会であったと仮定しないことは極めて重要だと考えています。なぜなら、フェミニズム研究が広がっていくにつれて、例えばアメリカでは、北米の先住民の多くが女性と男性が極めて対等な立場にある関係の形式を有していることがわかってきているからです。

北米の部族にはイロコイ族のように、会議での意思決定、戦争をするかしないかを決めるといったときに女性が大きな力を持っており、最年長の女性たちが共同体の政治的活動において特出した役割を果たしているものがいます。私たちにとって、これがそれ(母権制)なのかどうかを見極めるのは非常に難しいことなのですが、この方向性を示すものはたくさんあります。『A Caliban and the Witch(キャリバンと魔女)』の出版に先立って行った調査の間に、カナダのイヌイット族へのカトリックの布教に身を捧げたフランス人のイエズス会士の文書を発見したのですが、彼はその大部分を男性に女性と子どもを服従させることを教えるのに費やしていました。フランス人宣教師の目には、女性があまりにも力を持ちすぎており、自立しすぎているために、夫が性生活を支配することができないと映ったからです。だからこそ、私たちは極めて慎重にならなければなりません。私たちに届く歴史は勝者によって書かれたものなのです。しかし、大部分が破壊されてしまっているものの、あちらこちらにもう一つの歴史を垣間みることができます。常に細心の注意を払わなければなりませんが、過去にはもっと多くの母権制社会の存在を示すものは数多くあります。

こうしたことを踏まえた上で、資本主義が父権制の再構築を伴ったこと、言い換えれば、父権制的な関係という枠組みにおいて、搾取の方法と状況に従ってこの支配の目的と規則を変えてきたことは明白です。私のシンプルな解釈は、ある社会が人間の労働を搾取するとき、労働力の搾取に基づいているときには必ず、性的な差別があるというものです。女性の身体の支配、再生産の支配はあらゆる形式の搾取にとって土台となるためです。

とはいえ、それを支える個々の関係は変化していきます。そして、資本主義の中で最も基本的な関係は賃金によるものです。これが、私が賃金の父権制について語る理由です。言い換えれば、資本主義の中でこのような不平等を生み出す上で土台となる関係とその定着に必要な条件を作り出しているのが賃金なのです。例えば、賃金があるかないかということ、ほとんどが男性による賃金労働とほとんどが女性による再生産労働の間の違いには並外れた潜在的な力があって、理論の上でも政治の上でも決して社会主義者たちが認識してこなかった数々の機能を実行するために役立つことがわかります。このようにして、賃金は賃金労働者を搾取するためだけでなく、男性の賃金労働者を女性の仕事の監督者へ変える権力の委任によって、賃金労働者を通じた搾取を行うためにもまた、極めて強力なツールになります。このようにして、膨大な量の非賃金労働が動き、賃金はこうしたヒエラルキーの全てを作り出す者となり、不平等を生み出し、搾取を当たり前のようにみせかける役割を果たすことになるのです。

極めて重要な問題であるからこそ、私は賃金の父権制について語ります。なぜなら、賃金は人種による不平等と類似した機能を持っているからです。人種による不平等は総じて賃金労働者と非賃金労働者の間の違いに上に築かれていて、このことは黒人の奴隷制などにも見ることができます。これを明確にしておくことは、対抗運動の創造という観点から極めて重要なことだと思います。資本主義がこれほど多くの社会関係を変化させて、父権制の関係を再構築しなければならなかったこと、資本主義の支配にとって労働者階級におけるこの分断が極めて重要であり続けていることは、当たり前でも、不可避でもないと認識しなければなりません。

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―実は現在、女性のストというイニシアティブが進行中です。通常の生産ストライキのさらに先を行こうとするもので、ほとんどの場合、正規雇用の男性賃金労働者によって用いられてきたこのツールを取り戻すために、消費とフェミニズムの社会ストが計画されています。これについて、どう思いますか?

大変に重要なイニシアティブだと思います。何よりもまず、ストライキという概念の脱神話化と再定義を行わなければなりません。例えば、70年代にはフェミニズムの観点から、男性がストをしている間も女性は働き続けているという意味で、ゼネスト(ゼネラル・ストライキ=general strike)という概念はあまり適切なものではないことを私たちは繰り返し提起していました。 私たちは女性がストを行なったときに初めて、ゼネストが可能になるだろうと考えたのです。実際、1975年にレイキャビックの女性が全員ストを行い、街は完全に麻痺状態となりました。隠されたもう一つの工場が、他の人たちが賃金労働を続けることを可能にする、見えないもう一つの組み立てラインが可視化されたのです。

なので、私は様々な観点から女性のストというアイデアは重要だと考えます。家事労働の問題を政治活動の第一線に持ち出したことにおいても、私の意見では放棄されていた国家との交渉と対峙を再び始めたことにおいても重要です。 フェミニズムのアジェンダを方向付けて飼い馴らす上では、 フェミニズムの政治への国連の介入が決定的なものとなりました。最も反体制的な要素、とりわけ再生産労働との関係について問題提起するものを全て遠ざけてしまったのです。なぜ人間の生活の再生産に必要不可欠なこの労働に対する資本主義の評価がこれほど低いのかを考えるとき、私たちフェミニストにとって反資本主義のアジェンダが必要な理由を示すには、これが極めて重要な問題であることに私たちは気がつくことになります。

再生産労働の価値の切下げは、資本主義が構造的に必要としているものです。これは労働の搾取に依存していて、必然的に労働力という生産コストの継続的な切り下げが必要となります。このことによって、労働力の生産が何らかの価値を持つのを否定することが求められるのです。こうして、この労働を行う主体はその価値を切り下げられ、不可視化されます。決して女性は労働者として認識されることがないからです。そして、家事を行うことを拒むと、女性のストとしてではなく、悪い女性とみなされます。

だから、女性のストというアイデアは極めて重要だと思います。率直に言って、子どもたちを生きる価値のある世界に連れてこれるようになるまで、女性はストを宣言して、子どもを持つことなどの活動をやめるべきではないかと私は考えています。

―アレクサンドラ・コロンタイ(訳注:ロシアの革命家・共産主義者)が着手した子育てや家事の共有化についてはどう考えますか? 女性を奴隷のような家事労働から解放するためや社会の再生産の責任の社会化するためのツールとなりうるでしょうか?

再生産労働―子育てだけでなく、高齢者の介護も含めた全てのタイプのケア(世話)や全てのタイプの家事労働―の再編という問題は、本質的で非常に大きな重要性を持つものです。一方で、私たちにはどうやって社会的な富や資源を再生産労働に向けるかという問題があります。今日は起こっているのとは正反対の方向性です。他方では、この労働の再編がありますが、もちろんこれは協業という観点から行わなければなりません。女性の組織化にとって主な障害の一つがまさしく、この労働が行われる孤立した状況であったのですから。

資本主義は再生産労働を工業化する可能性を検討しました。非常に前産業革命的・前資本主義的で、古臭く見える方法を取ったという事実には驚くかもしれませんが、実際のところ、この選択肢は孤立化を進めるという戦略的な決定に応じたものでした。私の理論の一つは、賃金労働の場への労働力の集中は再生産の領域の解体を必要とするというもので、長期に渡って実施された都市整備計画が良い見本です。

例えば、米国では第二次世界大戦後に、都市の郊外、住宅地の創設がありました。 そこに小さな住宅を手に入れることを労働者階級に奨励しましたが、出来る限り工場から離れたところにあり、全ては完全に細分化され連続的なモデルに従っていました。こうした住宅のデザインはまさに人間を分断するためのもので、一日の労働が終わった男性と家族のエネルギーの全てが小さな家の周りに注がれ、そこでは、もちろん、女性は他の女性たちから分断されていました。こうして、私たちには再構築という大きなプロセスが未解決のまま残されています。家と家、家と通り、通りと地区の分離を終わらせるために行わなければならないことです。

私は共有化という問題やコロンタイがこのアイデアに着手した背景に懸念を持ちます。あまりにもボルシェビキの工場のように無機質な建物を思い出させるからです。ボルシェビキは革命の第一期において家事や再生産の作業を共有化する実験を数多く行いましたが、この目標は放棄されました。なぜなら反乱が起こり、労働者たちがこれに反対したのです。私たちは家事労働の工業化バージョンを望んでいるわけでも、細分化された連続的なバージョンを望んでいるわけでもありません。従って、私たちは何か違ったもの、つまり、協業的で社会的であるけれども、工業的な方法で組織されていないものを発明しなければならないのです。

―テレワークによって女性が、総じて全ての労働者が自治を回復できるという期待が広がっています。もしかしたら、私たちは極めて邪悪な釣り餌を飲み込もうとしているのではないでしょうか…。

その通りです。例えば、保育園のサービスです。たくさんの女性が自分の住む地区で自ら組織を作り始めました。しかし、重要な闘争は、そのサービスは外で働く女性だけに向けたものであるべきでないと考えることになるでしょう。家のこと、家事労働に従事する女性には休息時間を取る権利がないと考える人が、まだまだたくさんいるのです。従って、これが非常に重要な第一歩となるでしょう。

次に、これは父親や母親、あるいは子どもの家族にだけ関係するものであってはならず、同時に全ての人びとが共有する問題となるべきです。それだからこそ、協業が大変重要となります。しかしながら、協業を通じて国家との異なる関係を創造することもまた重要です。私たちは富を取り戻さなければなりません。ここで私が言っているのは、再生産コミューンのことです。再生産コミューンの創設は新たな貧困の分配を伴うものであってはならず、これら(再生産コミューン)が闘争の基礎となるべきでしょう。

―明日はコミューンの戦略的領域に関するあなたの講演会があります。このコミューンとは何ですか? この概念に含まれるものは何ですか? 何が共有で、何が個人に属するのですか? 誰がこの線引きを決める正当性を有する主体ですか?

コミューンに関しては様々な潮流があり、一つだけではありません。例えば、中世の欧州のコミューンはアメリカのコミューンとは異なるもので、多種多様な方法で組織されていました。しかし、いかなる場合にも協業と資源の協同管理と協同利用という形式の周囲を廻っていて、そこでは富、天然資源や人間が作り出す富を非商業的なものと捉える考え方が支配的でした。従って、コミューンについて固まったイメージを持たないことが重要です。もちろん、今日私たちが言及するコミューンというのは、私たちが生み出していかなければならないコミューンです。過去に戻ることは不可能です。過去から引き出すことができる重要な唯一のことは、人類の歴史の大分部において、人類は国家という形式でも私有財産を巡ってでもなしに、下からの協業というモデルに従って組織されてきたと知ることです。これが重要なことです。

コミューンという概念には数多くの次元が合流しています。一つは純粋に物質的な富に言及するもの、もう一つはもちろん、問題の活動の非商業的な性質、生み出される富の非商業的な性質に言及するものです。ここで私はコミューンとは関係の問題であるという事実を再び主張しておきたいと思います。コミューンを生み出すモデルが関係のモデルであるということで、人びとが何らかの富を共有するという事実だけを指すのではありません。大変に重要なのは、協業や連帯という問題です。

ある形式の労働と富のコミューン型組織に一定のルールが要求されることは明白です。それだからこそ、いつも私たちは、共同体がなかったり、一定の限界を定める規則がなかったりするコミューンは存在しないと言うのです。こうしたすべてが、集団的な意思決定に基づいています。いつものように、資本主義の中でも、共有のものと個人のものの間の関係について語るときや富について語るとき、私たちは人間に再生産を可能にする富の形式について、従って生産と再生産を通じた集団所有権について語ります。そのことは、例えば、人びとが自分のシャツを所有することができないという意味ではありません。

人びとは自分の歯ブラシすら所有することが出来ないというような方向性で、共産主義を巡って広められた虚偽や恐怖はすべて、本当の問題は人びとが手にしているえんどう豆を獲得する手段を個人の所有物にしたり、私有化したりしないことであること、こうした決断が集団的に行われることを隠してきました。しかし、私が思い描く世界、コミューンの世界は、ネットワークの世界でもあり、孤立した団体や小さな島のようなものではありません。相互交換や幅広いコンタクトを持つネットワークの世界で、常に人びとの決断に基づき、そこでは意思決定プロセスのコントロールは人びとの手にあります。後編に続く)

Silvia Federici: «El treball domèstic és el que produeix la força de treball»

TEXT: Maria Colera Intxausti / PHOTOS: Lewanne Jones

(出典:EspaiFàbrica

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