最初のオルター小説ドン・キホーテ-後編

– 今日(金曜日)の夕方、あなたのようになることを夢見ている約100人の生徒たちを前にすることになります。どんな助言をするつもりですか?

– 自分自身を磨くように言うだろうね。ジャーナリズムの学校に行ったからといって、自分を磨くことはできない。読書をしたり、演劇を観たり、いろいろな場所を訪れたり、音楽を聴いたりすることで、自分が磨かれていくんだよ。自分自身を育んでいかなければならない。そうすれば人生がチャンスと与えてくれるだろう。ところが、ジャーナリズムの学校は君を型にはめる。オーナーがシステムの一部を成しているものだから、そのシステムを支えるような方法で仕事をさせようとするんだ。それで君はシステムのために働くことになり、それに従わないとそこから追い出されるのさ。

-リシャルト・カプシチンスキ(訳注*ポーランド人ジャーナリスト)は、ジャーナリストになるためには、善人でなければならないと言いましたが、あなたはこの意見に同意しますか? それともジャーナリズムのジャングルの中で生き残っていくためには、この助言に従うのは自殺行為でしょうか?

– カプシチンスキのことは知っている。とても素晴らしい人物だった。しかし、この助言は(ジャーナリズムではなく)人生に当てはめるべきだろうね。例えば文学の中においてだ。私なら文学に当てはめるね。書くためには善人でければならない。善良でなければならないんだ。そしてジャーナリズムにおいては、ともかく倫理的な面が必要だ。例えば、私の息子マヌ。彼には倫理がある。そのことによって、マヌは現在の姿のマヌになっているのさ。彼はどこの政党にも入っていないし、イデオロギーも持っていない。だが、彼には倫理があるんだよ。そしてこれがあらゆることの役に立つ。倫理を持たなければいけないということだ。

– 今回の経済危機の最初の兆候が表れると、イグナシオ・ラモネはル・モンド・ディプロマティク上で、資本主義の死を告げました。私たちは祝杯を上げていいのでしょうか? それとも、そんなことでは楽観的過ぎると批判されるのでしょうか?

-資本主義は死に瀕している。だが、これから何が起ころうとしているのか。フランスにおいては大きな社会運動の動きがあるが、スペインの状況はフランスより酷いというのに、ここスペインには何もないね。いずれにしても何が起こるのであれば、それは一定の秩序の中で行われなければならない。資本主義の消滅の過程では、無秩序や混沌が引き起こされる可能性が非常に高い。しかし、それを望む者はいないだろうし、それが望ましいことなのかもわからないからね。だが、いずれにしても新たな物の考え方を獲得する必要があるだろう。人類の歴史の中で過去に行われたことを繰り返すことはできない。私たちは人類の歴史の歩みによって、これにたどり着いたのであって、今突然これが始まったわけではないからね。

– あなたは、カストロ兄弟ととても親しいそうですね。キューバはどこに向かっているのでしょうか?

– わからないな。君も知っているように私は親カストロ派だが、最近の動き(元外務大臣Felipe Pérez Roqueフェリペ・ペレス・ロケと元副議長Carlos Lageカルロス・ラヘをキューバの政局から外したこと)は過ちであると思っている。彼らは、今日権力を譲り受けるべき世代を豊かなものにしていたんだからね。誠実さや高潔さに欠けるという、ちょっとばかり醜悪な批判があったようだが、私はこれを信じていない。とはいっても、今のところキューバはこの50年間の世界において起こった最も素晴らしい出来事だ。

– ラテンアメリカにおいては、どんなモデルが用いられることになるのでしょうか? キューバかベネズエラ・モデルか? もっと穏健なブラジルやアルゼンチンのモデルか? それともコロンビアのような米国寄りのモデルでしょうか?

– ウリベは間もなく失脚するだろう。少し前に(コロンビアの)バランキーリャにいたんだが、そこで一緒だった人々はそう確信していたよ。南米大陸で最も完成しているモデルはベネズエラのものだ。続いて、ボリビア、エクアドル、そしてエル・サルバドル、パラグアイ…。この大陸は今まさに開かれつつある。

– これは2回目となる革命の試みですが、かつての経験から学んでいるのでしょうか?

– 間違いない。楽観主義がラテンアメリカにはある。ラテンアメリカにある豊かさが、世界に決定的なバランスを取り戻すだろう。例えば、チャベスはBanco del Sur(南の銀行)を作り出し、ラテンアメリカに共通の市場を作り出すことを計画している。そこに未来があるんだよ。(前編はこちら

2009年3月29日SUR紙掲載

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最初のオルター小説ドン・キホーテ-前編

キホーテは最初のアルテルムンディアリスモ小説だ

第5回となる’Antonio López Sánchez-Pradoアントニオ・ロペス・サンチェス-プラド会議に参加し、学生たちを前にジャーナリズム、文学、人生について、独自の見解を披露したラモン・チャオ氏。また、同氏はカストロが政府からペレス・ロケとラゲを遠ざけたのは過ちとみなしているともコメントした。

ハビエル・サカノ/SUR紙

言葉の旅人ーラモン・チャオはいつも著作の登場人物に付き添われて旅する

ラモン・チャオ(1935年ルゴ県ビラルバ生まれ)は、彼の物語の登場人物たちと決して離れることがない。彼らは17個のタトゥーとして彼の肌に張り付いて一緒に旅をするから、チャオを一人にすることは決してない。ラモン・チャオはジャーナリズムにおいての伝説的人物で、20世紀後半の歴史の一片をなす。そして彼はまた、ワォズニャクやサウラの絵を所蔵する移動式現代芸術ギャラリーでもある。まもなくそこにはバルセロの絵が追加されるだろう。

彼が生み出した登場人物、40年に及ぶキャリア、ラジオ・フランスで培われた知識、ガルシア・マルケス、カルペンティエル、ベネデティ、ラウルとフィデルのカストロ兄弟といった友人たち、息子のマヌとアントワーヌ、ル・モンド・ディプロマティクでの経験…。ラモン・チャオはこうしたもの全てを携えて、第5回アントニオ・ロペス・サンチェス-プラド・ジャーナリズム会議に参加するためにセウタを訪れた。

愛想が良くて冗談好き、言葉を巧みに操り、次から次へと逸話を繰り出すチャオは、ときにはユーモラスな優しく、またときに真剣な厳しく、硬軟巧みに織り交ぜた語り口でインタビューする者を催眠術にかける。この後で、会議に参加を希望したジャーナリズム専攻の学生たちも、同じように彼の催眠術にかかるだろう。そこには、ラモン・チャオのようなジャーナリストになることを夢見ている若者たちもいるだろう。

-もし現在ジャーナリストとしてのキャリアを始めたとしたら、あなたは今私たちが知るような姿のジャーナリスト・作家ラモン・チャオとなっていたでしょうか?

-いやいや、全く違うだろうね。言ってみれば、私は自分自身の倫理的な変遷と共にここまで辿りついた。政治的な変遷ではなくね。こうした自分の内部の変遷をそのまま用いることが可能であったマスメディア、ラジオ・フランシアとともにここまで流れてきたんだ。幸運だったと思うよ。だが、もし現在から自分の倫理的形成が始まるとしたら、50年前のようにはならないだろう。これほどまでしっかりと根が張った資本主義と新自由主義の前に服従していたかもしれない。つまり、私は丸め込まれていたかもしれないということだ。幸運にも、あの時代は共産党が力を持っていてキューバ革命もあった。こうしたもの全てが、私がコミュニズムに目覚めるを手助けをしてくれた。私がここで言っているのは、いわゆる共産主義のことではなく、もっと大きな文脈で捉えたもののことだ。ラジオ・フランスにおいてはこの考え方を用いて、カルペンティエルやボルヘス、ベネデティといった偉大な作家にインタビューをすることができたんだ。ベネデティもラジオで働いていて、一緒に番組を制作した。マリオ・バルガス・リョサも同僚だった。

-出発点を共有するバルガス・リョサとは、現在は異なる道を歩んでいますね。

-マリオは非常に左寄りであった一方で、反スペイン主義者だった。敢えて反フランコ主義とは言わない。反フランコではあったのは確かだが、反スペインでもあったんだ。

-パリに着いた1956年は文化的にも政治的にも、その後の歴史を左右するような時期でした。名前が出たカルペンティエルやボルヘスのような友人、そしてイグナシオ・ラモネとの出会いは、あなたに大きな影響を与える出来事でしたか?

-間違いないね。そうした出会いは私の中に痕跡を残したよ。例えば、私はフアン・カルロス・オネッティととても仲が良く、彼のことが大好きだった。私のタトゥーはみな彼との会話から生まれたものなんだ。ある日、彼に。「フアン、死が目前までやってきたらどうする?」と訊いてみると「私は死を恐れていない。死ぬときには、自分が創作した登場人物を呼んで、最期をみとってもらおうと思ってるからね。」と言うんだ。それで私は彼に「フアン、じゃあ私はそれをタトゥーで彫ることにするよ。」言ったんだ。

-ラモン・チャオ、イグナシオ・ラモネは、ル・モンド・ディプロマティックという類い稀なプロジェクトにおける二人のスペイン人…。

-ガリシア人だね。

-そう、ガリシア人ですね。

-イグナシオは、ル・モンド・ディプロマティクの3代目編集長で、今ある遺伝子を持ち込んだ人物だ。ル・モンド・ディプロマティクは、そもそもフランス人外交官のための情報誌だったんだが、彼が左に回転させ、ついにはアルテルムンディアリスムにしてしまったんだよ。イグナシオ・ラムネがすべて発明したんだからね。世界社会フォーラムもイグナシオの発明だし、ATTACも、トービン税を使うというアイデアも同様だ。

-友人のイグナシオ・ラモネは、あなたがキホーテを何度も読み返していることを強調していますね。

-私はフランスで生活していることが、執筆活動に影響を与えることをとても恐れているんだよ。だから一冊小説を完成するたびにキホーテを読んでいる。キホーテは15冊程度、キホーテに関する本も同じ位持っている。内容はもう頭に入っているよ。キホーテについても書いたものもかなりある。ちょうど最近、マリオ・バルガス・リョサがキホーテの序文にキホーテは最初の新自由主義小説だという書いた。だから私はそれに応えて、他の本の序文で最初のアルテルムンディアリスム主義小説だということを示したんだ。

まず、サンチョ・パンサが賃金を要求する場面はキホーテに何度も出てくる。あらゆる被雇用者には賃金を得る権利があるからだ。そしてもう一つ重要なのが風車だ。風車の怪物というのは根拠のないものではない。風車は多国籍企業Kluegerクルーガーが所有していて、クルーガーはレパントの闘いの費用を負担するかわりに、すべての風車の用益権を手に入れたんだ。キホーテは多国籍企業を、その象徴の一つを攻撃したというわけさ。多国籍企業に対する直接的な攻撃が描かれた最初の小説なんだよ。(後編はこちら

キホーテがポルトアレグレにやって来た-3

ところが、ブラジル大統領ルラの顧問Luiz Dulciルイス・ドゥルシの参加で、ユートピアについての議論は崩壊してしまう。なぜ彼がこの議論に参加したのか、誰にもわからなかった。彼が「WSFによるもう一つの世界は可能だ」と言ったときに、勇敢にもまばらな拍手を贈った人がいたことはいた。しかし、今日においてユートピアとは何かと問いかけ、『可能な』ユートピアと『不可能な』ユートピアがあると答えた上で、社会主義のユートピアは歴史的には失敗したと主張してブラジル政府を不器用に正当化し始めると、この拍手は不満とやじに変わった。

ポルトガルの作家ジョゼ・サラマゴは、「今日においてはユートピアという概念が、完全に役に立たないものになってしまったという意見には私は反対だ。(セルバンテスがキホーテを書いたのは)トマス・モアが著名な作品を1516年に出版した後だから、この本がミゲル・デ・セルバンテスに決定的な影響を与えたことは確実である。」と語った。また、『ユートピア』という言葉は厳密には何も意味していないとし、「アルフォンソ・キハノは、あまりにもたくさん読書をしたので、想像の果てに真の生活は他の場所にあることに気がついてしまったのだ。多くの人が政治とは不可能の技術だと言う。しかし、もし私たちにとっての意味でユートピアという言葉を用いるならば、それは現在を築くことなのだ。そして、そのためには、まず今何が起こっているのかに触れなければならない。巨大な金融機関は民主主義的ではないし、貧しい国々は自らの未来を決めていない」と指摘し、フォーラムとは何かについて語った。

ガレアノが行った3つの引用は、その後の議論の空気と上手く合っていたようだ。一つ目は、メキシコに移住したタバラ(スペインのサモラ県)出身の詩人León Felipe Caminoレオン・フェリペ・カミノの詩で、その中で詩人はキホーテに関して問いかけている。『それで…、今は何時だろう? 私たちの詩の中では、何時になるのだろうか? それは、田舎者が国王に見えたり、ガラの悪い売春婦が伝説のお姫様に見えるような時間だ。そして、アルドンサ・ロレンソがドルシネアに変身するような時間…』

二つ目は「現実をあるがままに見る者は『どうしてなんだ?』と問いかけ、現実を今までなかった姿で観る者は『どうしてダメなんだ?』と問いかける。」と書いたイギリスの劇作家George Bernard Shawジョージ・バーナード・ショー。

三つ目は彼の友人でアルゼンチンの映画人だったFernando Birriフェルナンド・ビリ。『ユートピアは何の役に立つのか?』ときかれた彼は、『その問いについて私も毎日考えている。ユートピアは地平線にあって、10歩進むと10歩遠ざかり、20歩進むと20歩遠ざかる。何歩進んでも決してたどり着くことはない。だからこそ、ユートピアは役に立つのだ。前に進むために。』

この不公正な秩序を終わらせるための行動はどこにあるのだ?

空間的なものでもなく、時間的なものでもないユートピアという概念によって、この議論にの中ではフォーラムが抱える矛盾から、一刻を早い解決が必要な切迫した人類の問題まで、多岐にわたって考察することが可能となった。しかし、一般参加者が発言を始めると、 こうした議論のトーンは がらりと変わる。民主主義的精神から、スピーカーに質問をしたり、感想を述べたいと思う人は、演壇に登って発言できるようになっていた。そのときに、ポルト・アレグレ2005のもう一つの顔が姿を現した。当たり障りのない感想を語る人もいたが、その大多数は、「この我慢ならない不公正な秩序を終わらせる具体的な行動はどこにあるんでしょうか?」のような苦情を訴え、発言をした名士たちを引きつった表情にさせた。その頃には、すでに多くの人々が席を後にして、昼の40度の暑さをしのぐために、椰子の木陰を探しながら、レデンサオン公園の黄色がかった芝の上を歩いていた。ドン・キホーテが通るのを目撃した ポルト・アレグレで

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この記事の元になったシンポジウムの映像です。

キホーテがポルトアレグレにやって来た-2

「民主主義の立場に立てば(大多数を占める)貧しい人々が世界を統治するべきであるのに、そういう状況にはなってないどころか、彼らの存在は全く考慮されていない。つまり現在のグロバリゼーションは、最も連帯から遠い世界で生み出されているものなのだ。」と結論づける。ラモネは言う。「ヨーロッパの牛は日に1頭4ドルの補助金を受けている一方で、人類の三分の一が一日1ドル以下で生活している。私たちは1頭の牛が他の大陸の人間1人より 価値を持つ世界に生きているのだ。現在20億人が電気なしで生活しており、5人に3人が電話がなく、インターネットがあるのはたったの100人に3人だ。 この不公正を終わらせなければならない。問題はどう行動するかだ。」

「このフォーラムには実践的なことを行うという目的がある。この点を避けて通るべきではない。」とした上で、「飢餓と貧困と闘う世界規模の保健機関を設立する。いわゆるタックス・ヘイブンをなくす。貧しい国々の対外債務を取り消す。人類のために飲料水については支払猶予期間を設置する。世界の巨額な富に対して連帯税を制定する」という5つの提案を示行い、「なぜなら、ユートピアとは永続的な真実の形ではなく、私たちが変えてかなければならない世界のことなのだ」と締めくくった。

「実際に今日の世界は、ドン・キホーテの登場人物が逆説的であるのと同様に、逆説的なものだ。」と、エドゥアルド・ガレアノは言う。「キホーテという不死の小説が生まれたのは、ミゲル・デ・セルバンテス・サーベドラが、まるで今日のラテンアメリカの人々のように、借金が原因で牢獄にいたときであることを、忘れるてはならない。 それでも結局のところ、私たちの国々の政治家が、こうした危機を前にして自分たちを正当化するために、繰り返し引用している『人々が吼えている。サンチョ、我々の道を進めということだ。(「人々が口うるさく批判するのは、私たちが正しいからだ」という意味)』というフレーズが、小説に出てこないという事実はほとんど知られていない。」

「ドン・キホーテの登場人物は、表面上はとてつもなく滑稽に見える。痩せこけた駄馬に乗って、洗濯桶の甲冑を身に着けているのだから。しかし、それは『親しみやすい』ものであったから、年月の流れとともに歴史的なスケールのアンチヒーローへとなった。」とガレアノは付け加えた。「王立アカデミーの辞書は『la quijotada(ドン・キホーテ的な行動)』を自分の都合よりも理想を優先し、正義と考えるもののために無私無欲で行動しするものの、成し遂げることができないことと定義しているが、最後の部分について、私は納得できない。というのも、ドン・キホーテ自身は、闘いの場面から道義的には勝者として立ち去るからだ。そして、このことが現在においてもキホーテが影響力を持つ理由の一つである。コンゴ、そしてボリビアに向かう1965年、チェは両親に宛てた別れの手紙を書くが、そこで彼が引用したのはカール・マルクスではなく、キホーテであった。『かかとの下にロシナンテのあばら骨を感じています。盾を手に旅路に戻ります。』と書いているのだ。」

「イギリス人のトマス・モアが著書『ユートピア(どこにもない場所)』で語ったのは、つまり、生を分かち合うという夢であった。それからというもの、私たちが生きているこの世界も、私たちが必要とする世界も、どちらもが同じように現実的であることを私たちは忘れてしまっている。」こうガレアノは締めくり、一つの例を思い起こす。『ベネズエラに住んでいたときに、バルガスという名の画家を知った。奇跡的とも言える才能を持つ芸術家で、彼の作品は生への賛歌であった。にもかかわらず、西洋に最も多くの石油を供給することで、悲惨な状況になってしまった村から、彼自身は生涯一度も出ることがなかったのだ。バルガスは現実主義者であった。人は(実際にある現実でなく)必要としている現実を描くときも、現実主義者なのだから。この世界はもう一つの世界を孕んでいるのだから。」(次回に続く)

キホーテがポルトアレグレにやって来た-1

イグナシオ・ラモネは世界社会フォーラムを「気違いじみた目的で再築されたバベルの塔」と表した

開催四日目の午前中のことだ。ポルト・アレグレの第5回世界社会フォーラム(WSF)は、槍受けに盾でしっかりと自衛して、ついに議論が紛糾する状況に突入した。それも、カール・マルクスではなく、ラ・マンチャの男ドン・キホーテが思い描いたような方法で。

だいぶ前から、フォーラムで何かが起こっていることはわかっていた。広大なアリーナには巨大なテントが張られ、今までもいくつかの討論が行われていたが、その参加者は多いとは言えなかった。辺りには、Zero Horaセロ・オラ(0時)を掲げた新聞売りがいる。その表紙には雪深いダボスの風景をバックに、ヘリコプターから降りる(ブラジル大統領)ルラの姿が見える。金持ちたちから拍手で迎えられたという記述の後に、議論が始まる。「ルラ、あなたの染み一つない白いベストの下には、ジガンティニョ(Gigantinho ポルトアレグレにある巨大スポーツ施設)の銃弾で試験済みの防弾チョッキを使用していたんですか?」と新聞は問いかけるのだ。

「Quijotes hoy : utipía y política今日のキホーテたち-ユートピアと政治」と題されたこのディベートには、Federico Mayor Zaragozaフェデリコ・マヨル・サラゴサ (元ユネスコ事務総長)、 Ignacio Ramonetイグナシオ・ラモネ(ル・モンド・ディプロマティク)、エドゥアルド・ガレアノ(ウルグアイの作家)、José Saramagoジョゼ・サラマゴ (1998年ノーベル文学賞作家)が顔を揃えた。

このイベントが開催されたのは、ポルト・アレグレを代表する緑地帯の中心部に位置するファロウピリャ公園内の大きなホールで、人々は『ラ・レデンファオ公園』と呼んでいる。この場所は、ガスタンク工場に近いベラス海岸の側面に位置するグアイバ河岸にあり、WSFのディベートのほとんどが行われる二つのアリーナからはかなり離れている。そこでは早朝から行列が途切れることがなく、ポルト・アレグレ2005のメインイベントの一つが行われる会場は、何千人という若者で満席となっていた。

これは、1605年に出版されたセルバンテスの大傑作の第一部の400周年を祝して、共に作り上げようと試みているものの未だに具体化していない新自由主義に対する代替案(オルタネイティブ)に関して、浮上する一連の疑問への答えを探そうという試みだった。

満員になる前に入場することができた5000人を越える出席者の前にスペイン人フェデリコ・マヨル・サラゴサはまず「今日においてもユートピアは存在しており、変革の中心的要因となりつつある」と述べた。ミゲル・セルバンテスの代表作が持つ重要性について論じた後で、自説の核となる部分に言及し、「絶え間なく立位置を変える現実主義者たちには、人類の変革は不可能だろう。(この世界において実現可能なのはこれだけだと)一つの考え方を押し付けられたときにユートピアは終わりを迎える。だから、現在において代替案の輪郭を描く最良の方法は、マネタリズム的な政策の阻止のために、みなが平和的な抵抗に貢献することだ。」と語った。

イグナシオ・ラモネの番になり、彼はこう語る。「ドン・キホーテの狂気は、ポルト・アレグレに集まった気狂いたちの狂気と肩を並べるものだ。ユートピア主義者はトマス・モアが描いたように、完璧な社会、理想的で幸福な共和国を構築したいと考えるものだ。ところが、ドン・キホーテは愛他主義者であり、彼は不正を打ち砕くために自らの力を提供するものの、自由主義という一つのモデルのために闘っているのではない。つまり(現在の世界と)異なる世界を望んでいただけのだ。彼はもう一つの世界は可能だと信じていたが、そのための計画などなかったし、他の人にそれを押し付けようとはしなかった。そこにドン・キホーテの寛大さがある。ここポルト・アレグレでも、何かの計画を人々に押し付けようとしているわけではない。なぜならそれは牢獄に変わってしまう可能性があるからだ。」と、世界社会フォーラムの創設者の一人でもあるル・モンド・ディプロマティクの編集長は付け加えた。

そして「このフォーラムは、それ自体が一つのユートピアなのだ。ここは地球上の人々の集会であって、国家の集会ではない。WSFの目的は、批判の国際見本市になることではなく、地球上の力を集めることだ。キホーテが一人では十分でないからこそ、ここにはたくさんのキホーテがいる。」と続けた。

「私たちのことを『風車』と闘っていると言う人がいるなら、まず今日において現実とは何かと問うてみるべきだ。その答えは明らかなのだから。10億人が素晴らしく快適な環境で生活している一方で、50億人が必要最低限の物資が手に入らない貧困の状況で暮らしているのが現実なのだ。」と付け加えた。(次回に続く)