本書の原著『HAY ALTERNATIVAS-Propuestas para crear empleo y bienestar social en España』は、スペインで2011年の秋に出版されました。日本とは状況が異なるスペインの経済危機について扱った、それも出版からすでに一年半以上が経過した本書の邦訳を出版する意義があると考えるのは、本書が経済危機を扱うものであると同時に、現在の世界で主流となっている新自由主義の主張の嘘を暴くものであり、不完全な民主主義が悲劇的な結果をもたらすことを警告するものだからです。本書に記されたスペインの例を見ても明らかですが、新自由主義というのは、主張においても手法においても、この数十年間まったく変わっていません。たとえば、スペインにおいて新自由主義を押し進めるツールとして厳しい緊縮政策が用いられたのは、90年代初頭と今回の経済危機と計二回。最初は民主化の最終段階として「欧州に復帰するための唯一の道」、そして現在は「危機から脱出するための唯一の道」と、まったく異なる目的のために、公的支出削減と民営化を柱とするまったく同じ緊縮政策が用いられています。新自由主義陣営の言い訳はいつも同じで、「オルタナティブはない」。本書はこの主張に真っ向から反論して、「オルタナティブはある」ということを示すために書かれました。

本文中で、「オルタナティブはない」という見解を布教する新自由主義の宣教師と化した大手マスメディアへの批判が繰り返されていますが、本書もまさにこうしたマスメディアの「自主検閲」の対象となりました。そのいきさつは次のようなものです。2011年年8月の時点でAguilar社(左派系とされている新聞『エル・パイス』紙を傘下に置く巨大メディアグループPRISAの子会社の一つ)から10月19日発売が決定し、出版社のサイトやスペイン全土の書店で告知が始まりました。後に、トーレスは「発売日に間に合わせるために超人的な努力をしなければならなかった」と回想しています。にもかかわらず、発売日が近づくと、出版を11月(の総選挙)以降に延期したいという出版社の意向が、著者たちに一方的に伝えられたのです。

「それで私たちはAguilar社からの出版を断念せざるえなかった」というナバロの言葉からわかるように、本書出版の目的は、経済危機から抜け出すには緊縮政策以外の道はないという論調が支配的な中で「もうひとつの道があること」を総選挙前に有権者に広く知らしめることでした。だからこそ、出版のタイミングにおいて妥協をすることは論外で、結局、三者が科学評議員として参加するアタック・スペインの協力のもと、Sequitur社から10月末の出版に漕ぎ着けます。出版後も大手マスメディアによる「自主検閲」は続き、影響力のある大手メディアが本書を取り上げることはありませんでしたが、ネットや口コミで話題となり重版を重ねています。さらには、本書を原作とするドキュメンタリーをクラウドファウンディングで制作するプロジェクトが生まれ、多くの支援を集めて昨年の夏に始動。プロジェクトは順調に進んでいて、九月にマドリッドでの完成上映会が予定されています。

政治的理由からフランコの独裁政権を逃れて40年にわたる国外生活を送ったビセンス・ナバロ、独裁政権下に生まれ、独裁から移行期、民主化とスペインの激動の時代を生きてきたフアン・トーレス・ロペス、そして、市民運動のスポークスマンから最年少国会議員(2011年の選出当時27歳)へと転身したアルベルト・ガルソン・エスピノサという、世代の異なる三人の経済学者は、なぜ総選挙前の出版にこだわったのでしょうか? 著者たちが本書に込めた思いを理解するために、スペインの2011年を振り返ってみましょう。

2011年というのは、スペイン社会が大きな転換期を迎えた年でした。その幕開けとなったのは、5月中旬に全土で起こった「怒れる者たち」や「15M(キンセ・エメ)運動」と名付けられた市民の抗議運動です。「15M」という名前は、出発点となったデモが行われた5月15日を意味するスペイン語「15 de Mayo」に由来します。地方選挙戦の真っ只中に始まったこともあって、主に当時のサパテロ政権とその緊縮政策に対する反対運動として報道されましたが、その本質はスペインの人々の新自由主義との闘いが新しい局面に入ったことを告げるものでした。

デモが行われるちょうど一年前の2010年5月12日、サパテロ首相率いる社会労働党政権はスペインの歴史を変える大きな決定をくだしました。欧州経済危機を背景に金融業界とEUからの圧力に屈し、民主化後最もラディカルとされる緊縮政策を行うことを決めたのです。そして、この緊縮政策の実施は、一九世紀末からスペインの人々が勝ち取ってきた社会的権利の一部を放棄することを意味しました。ここから経済危機という文脈の中で、スペインの人々の緊縮政策への反対運動が始まったのです。しかし、人々の生活に直結する決定を独断で行った政府は、通りからの抗議の声に耳を傾けることなく、着々と緊縮政策を実行していきます。「政府は、政治家は、一体誰を代表しているのか?」という疑問がスペインの人々の間に沸き上がるのも当然でしょう。

このような状況の中で、2011年5月15日「今すぐ真の民主主義を!私たちは政治家や銀行家の手中にある商品ではない」というスローガンのもと、スペイン全土58都市で約13万人が参加したデモは、経済危機への処方箋として押し進められる緊縮政策に対する抗議であると同時に、金融権力に乗っ取られて、新自由主義を推し進める道具となり果てた議会制民主主義に対する批判でした。そして、この抗議活動は、デモが「広場の占拠」という独特の抗議方法として拡大したことと、それに対する警察の強制排除が起こったことで、国外からも注目を集めることになりました。この広場を占拠するというアイデアは、新しい民主主義のかたちを探るという目的のために、民主主義の基本である「話し合う」場を確保する必要性から生まれたものです。そこでは、参加型の直接民主主義の実践とともに、危機の原因は私たちが暮らす消費型の社会にあって、そこを変えない限り根本的な解決には至らないのではないかと考えた人々によって、新しい社会モデルの模索も行われていました。マスメディアの報道ではほとんど触れられることのない運動の内側に興味を持っていただいた方は、ぜひともインターネット上で公開されているドキュメンタリー『目覚めゆく広場――15M運動の一年』をご覧ください。そこで何が起こっていたのか、登場人物の一人ひとりが自らの言葉で語っています。

15M運動は民主化後最大の社会運動と目されるほどに、幅広い層からの支持を集めましたが、もちろん批判的な声もあり、最も多い批判がただ反対するだけで具体的な提案がないというものでした。その批判が妥当なものかどうかはさておいて、そうした声に対して、経済の専門家の立場から具体的な提案を行って、15M運動の主張に理があることを示すというのが、著者たちが本書に託した意図でした。だからこそ、市民が投票によって民意を表すことができる総選挙の前、という出版時期が非常に重要だったのです。言ってみれば、本書は怒れる三人の経済学者から怒れる者たちへのエールなのです。

本書の行間からも伝わってきますが、緊縮政策が経済危機に対する処方箋という新自由主義者たちの嘘に一番怒っているのが、経済学を専門とする彼ら自身です。15M運動が生まれる約一カ月前の4月半ば、新聞『プブリコ』紙上で「乗っ取られた民主主義を取り戻すために闘え」と訴える「¡Rebélate!(反逆せよ!)」を発表していたナバロは、主要メディアが15M運動に批判的な論調の中で、すぐさま15M運動を擁護する論説を発表します。一方、トーレスも「こんな不公正な社会において、どうして怒らずにいられようか?」と15M運動を支持する立場を明確にし、社会学者カルロス・マルティネス・ガルシアとの連名記事「15-M: Hartos de la estafa y la impunidad(15M運動―詐欺にも無処罰にもうんざりだ)」の中で選挙システム改革の必要性を訴えました。さらに、ガルソンは自らが怒れる若者の一人として15M運動に参加。これがきっかけとなって、11月の総選挙に自ら出馬することになります。

結局のところ、総選挙では新自由主義の前に頭を垂れたことで左派有権者の支持を失った社会労働党が自滅する形で保守派の国民党が政権に返り咲き、スペインはさらに厳しい緊縮政策への道を歩み始めることになりました。しかしながら、15M運動は大きな功績を残しています。それは、緊縮政策に象徴される新自由主義の問題を経済の問題から、民主主義、つまり私たちを取り巻くシステムの正当性の問題へと進めたことです。

では、なぜスペインの人々は、緊縮政策との闘いを通じて、自分たちの民主主義システムに問題があるという結論に至ったのでしょうか? この結論に至るには二つの視点が必要です。一つ目は、緊縮政策は新自由主義を進めるための道具であって、経済危機とはまったく何の関係もないということ、そして、二つ目は自分たちの民主主義は不完全であるということ。

一つ目に関して、冒頭でも触れましたが、スペインの人々の緊縮政策との闘いが、経済危機の訪れとともに始まったのではなく、民主化後の欧州と国際社会への復帰から始まっていたことが大きなポイントになります。実は、スペインの欧州への復帰というのは独裁者フランコの悲願であり、主に独裁政権を支えた保守勢力の主導で進められてきたのです。フランコ政権は1962年、1972年と米国に対して欧州復帰への支援を求めますが、独裁政権に対する支援は議会が認めないとして拒否されました。その後フランコが死去して、1977年に民主的な選挙が実施されると、待ち構えていたように欧州経済共同体(EEC)への加盟を申請。1986年にEECへの加盟が実現すると、真っ先に決まったのがNATOへの参加でした。この後にEU加盟が続くのですが、このような歴史的事実からも、欧州の復帰が主に経済と軍事を目的にするものであったことがわかります。

それが民意ではなかったことを裏付けるように、スペインの欧州復帰は常に通りからの反対運動を封じ込める形で進められてきました。まず、NATO加盟に対しては、大規模な反対運動が巻き起こり、決定を国民投票に委ねることになります。1986年に投票が行われると、わずかに賛成票が上回り(投票率59.42%のうち52.5%)加盟が決定しますが、当時の社会労働党ゴンサレス政権が賛成票を募るキャンペーンを繰り広げたこと、また質問内容が賛成に誘導するものだったことなどから、その客観性には疑問が残るものとなりました。

そして、春にセビリア万博、夏にバルセロナオリンピックと、国際的ビッグイベントを立て続けに開催した1992年、スペインが独裁を乗り越え、欧州の新たな民主主義国家となったことを世界にアピールした年にも、国内では市民の反対運動が巻き起こっていました。この同時開催のコンセプト「新大陸到達から500周年記念」が植民地主義的であること、ゴンザレス政権がイベントを利用して経済発展を最優先させる政策を導入したことなどから、万博とオリンピックの開催に反対する「Desenmascaremos el 92(九二年の仮面を剥がせ)」という運動が生まれ、これがスペインの反グローバリゼーション運動の出発点とされています。翌年1993年中央政府がカタルーニャの第一党CiU(集中と統一)とユーロ通貨に参加することで合意し、マーストリヒト条約に定められた国内総生産6%以内の財政赤字を達成するため社会コストの削減を開始。これがスペインの人々の緊縮政策との闘いの始まりとなりました。

その後1994年9月末のIMF(国際通貨基金)・世界銀行の創設50周年年次総会マドリッド開催に合わせて、「Las otras voces del Planeta(地球のもうひとつの声)」という対抗フォーラムが開催され、ブレトンウッズ体制に異議を唱える「マドリッド宣言」が採択されます。その提言は次の通りです。

  • 世界の貧困、環境破壊、戦争に対するIMFと世界銀行の政治的責任を問う
  • 女性の主権と自由
  • 市場経済との決別
  • 市民、共同体として経済と金融のグローバリゼーションに立ち向かう
  • 地域からの自治と責任によって世界の経済危機に立ち向かう
  • 対外債務の取り消し
  • 国際援助の見直し
  • 国際経済機関の廃止

と、反グローバリゼーション運動の主張を先取りするものになっています。

さらに、欧州共同体議長国の任期終了に合せて、スペインで数々の閣僚会議が開催された1995年、マドリッドの欧州サミットへの抗議行動として「Foro Alternativa a la Cumbre Europea(欧州サミットへの対抗フォーラム)」が行われると、翌年には反マーストリヒト運動が本格的に組織され、ユーロ通貨への参加の是非と問う市民投票の実施を求める動きも生まれますが、結局市民投票が実施されることはありませんでした。

一方で、労働市場を柔軟化する労働改革が進められたために失業者が増加。1997年には欧州レベルで失業に抗議する大行進が組織され、スペインからはマドリッド、レバンテ―カタルーニャ、アラゴンと、各地で編成された三つの部隊が徒歩でアムステルダムを目指しました。同年7月には、マドリッドでのNATO首脳会談開催に合せて反NATOキャンペーンが行われ、その後1999年のNATO軍のコソボ介入によってもNATOへの反対運動が再燃します。

そして、1990年代末から世界規模で盛り上がった反グローバリゼーション運動は、2002年からのユーロ通貨の本格導入前夜と重なったため、スペインにおいては反ユーロ運動の流れに合流する形でさらに大きな運動となりました。2001年の6月にバルセロナで開催が予定されていたIMF・世銀年次総会は、反対運動が拡大した結果、安全性が確保できないと判断されて電話会議に切り替えられました。

このように、スペインの欧州復帰の歩みというのは、市民の抵抗の歴史そのもの。欧州の平和のために創設されたEUへの参加の道が、皮肉にも新自由主義との闘いの歴史となってしまったのは、EUという枠組みが、実際には欧州に新自由主義を導入するために作られたものであったからにほかなりません。

ポルトガルの社会学者デ・ソウザス・サントスは最近のインタビューで、ユーロは社会党や共産党が強く、公的な教育、医療、年金が根付いた福祉国家で、当時までは新自由主義から自由であった欧州に、国レベルの抵抗を排除して新自由主義が一気に入るための方策の一つであり、この新自由主義導入プロジェクトは欧州委員会、欧州中央銀行設立と進んで、最後にユーロの導入で完成に至ったと説明しています。このことから本書で繰り返される「福祉国家」こそが新自由主義に対抗する最大の防御であることがわかります。だからこそ、新自由主義陣営は、人々が格差の解消と富の分配という福祉国家の役割を見失ってしまうように、能力主義の立場から、貧困と失業の原因は各自の資質や能力にあるという見解を主張して、社会問題を個人の問題にすり変えるのです。

また、世界で最も影響力のある左派論客の一人で、アタックの創設者でもあるイグナシオ・ラモネによると、当初予定になかったIMFがトロイカ入りしたのは、ラテンアメリカ、アフリカ、アラブ、アジアと、世界中で融資と引き換えに新自由主義政策を推進してきた「経験」を買われてだということ。だからこそ、欧州委員会、欧州中央銀行、IMFで構成されるトロイカが欧州での新自由主義政策推進の原動力となっているわけです。

では、前提の二つ目において、スペインの人々が自分たちの民主主義を問題にしたのは、本書の中でも度々指摘されているように、スペインの民主化が非常に制限された形で行われたことに原因があります。この点について、少し補足の説明をしておきます。

スペイン内戦で左派が中心だった共和国派が敗北し、フランコが権力の座に就くと、共和国側で闘った人々は弾圧を逃れてスペインを後にします。1939年の時点で国境を越えてフランスに逃れた亡命者の数は40万人以上。詩人のパブロ・ネルダのイニシアチブで約2200人のスペイン人亡命者をチリに運んだウイニペグ号を筆頭に、さまざまなルートで新大陸に渡ったスペイン人共和主義者は、キューバ革命やチリのアジェンデ政権の誕生など、ラテンアメリカの左派革命にも影響を与えることになりました。また、穏健で模範的なものとされている民主化の過程でも左派に対する弾圧は続き、フランコの死から1983年までに、約600人が政治的理由で殺害されています。こうして、長年にわたる弾圧によって左派が弱体化していたために、民主化が行われたとき、スペイン国内では右派が圧倒的な権力を握っていたのです。

そしてもう一つが外圧。今年4月にウィキリークスが公表したキッシンジャー外電によって、フランコ独裁政権下、民主化への移行期において米国が果たした役割の詳細が明らかになっています。米国にとって、欧州とアラブ・アフリカをつなぐ場所にあるスペインは対ソ連のみならず、対アラブ・アフリカ戦略においても重要な地点でした。フランコはそれを利用して米国の支援を獲得し、その見返りに国土を差し出したのです。つまり、他のファシズム指導者ヒットラーやムッソリーニと異なり、第二次大戦後もフランコが生き延びたのは米国の支援を取り付けていたからでした。そして、この米軍との協力関係は民主化後の現在も変わっていません。1991年の湾岸戦争、2003年のイラク侵攻時と、イラクを爆撃する爆撃機はスペインの基地から飛び立ち、さらには、グアンタナモに捕虜を運ぶ中継点として基地の使用を、アスナール政権が米国に許可していたことが明らかになっています。

そして、フランコが死んだ1975年は冷戦の真っ直中でした。フランコの死の間際に現国王ホアン・カルロスから受けた支援要請に対して、米国は国内の共産主義勢力を牽制していた独裁政権の消滅による左派政権誕生の回避と軍事的協力関係の維持を目的に、王政復古に協力。こうして、現在の君主制に基づく議会民主制国家スペインの基礎が作られたのです。

最近のアラブ諸国のケースを見てもよくわかりますが、独裁者を倒して民主的選挙を行えばそれで終わりというほど、民主化のプロセスは簡単なものではありません。独裁とは独裁者ではなく、それが象徴するシステム全体のことなのですから、制度を一つひとつ根本から改革して、独裁を支えたシステムの一新が必要不可欠なのです。ところが、スペインの場合も、1981年のクーデター未遂勃発により改革が実質的にストップしてしまったこともあって、この過程が不十分なままに終わってしまいました。

また、多くの国々と同様に、スペインの民主主義は、右派と左派の声を代表する二大政党が政権を競い合う議会民主制に基づいたものですが、この形式だと実質的な選択肢が二つしかなくなってしまうために、そのどちらにも同意できない人々の投票離れを加速させてしまうという問題が生じています。具体的に言えば、2010年の5月にサパテロ政権が新自由主義を社会的権利に優先させてしまったことで、左派の人々は票を託す政党を失ってしまいました。さらにはドント方式の採用によって選挙制度が大政党に有利なものとなっているため、それ以外の政党に投票しても新自由主義を止めることができないのは明らか。だからこそ、2011年の5月15日、人々は「政治家は私たちを代表していない」と叫んで、現行の民主主義システムに代わる新しい民主主義を求めたのでした。

にもかかわらず、「アラブの春」というアラブの人々の民主化要求を歓迎した各国のマスコミは、スペインの人々の同じ要求を緊縮政策への反対運動として報道して、その真のメッセージを隠してしまいました。スペインの民主主義は、多くの先進国と同じ選挙システムを採用しているために、その問題点を認めることは自分たちの民主主義の不完全さを認めることに繋がってしまうというのが、その理由でした。

その一方で、現行の民主主義システムに対する問題提起が他の国々の人々と共有できるものだったからこそ、15M運動は欧州各国に飛び火し、九月には「ウォール街を占拠せよ」として米国に上陸。さらに、五月のデモの主催団体が世界に呼びかけた10月15日のデモは、82カ国951都市で開催されるまでに拡大したのです。

こうした理由から、15M運動の主張を代弁したとも言える本書において、著者たちはスペインを襲う現在の経済危機が、金融権力を中心とする一部の少数が暴走したことによって生じた、民主主義機能不全の結果であることもあぶり出していきます。そして、「危機から抜け出すためにはまた、さらなる民主主義、真の民主主義も必要なのだ」と、今の民主主義の形を変える必要性を訴えかけたのです。

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 この数年でスペインの状況は、銀行の危機であった金融危機から、銀行救済のために大量の公的資金を投入したことによる債務危機、そして、債務返済のために緊縮政策をとったことによる大不況と移り変わってきました。この状況はPIIGSと呼ばれるポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャも同様で、こうした国々の人々を苦しめているのは、新自由主義によって引き起こされた経済と社会の危機的状況です。

現在もスペインの状況は改善するどころか悪化の一途。今年4月に失業率は27.16%に達し、失業者数は600万人を突破。スペインの失業手当は掛け金を納めた人のみが、給与の50〜70%を最長二年間受け取ることができる制度のため、失業手当受給者は失業登録者の六割程度にとどまります。長期失業者が五割にのぼり、大黒柱が失業している家庭が二割を超える中、貧困率は26.8%にも達し、貧困が大きな社会問題となっています。その一方で、2012年に100万米ドル以上を稼ぐ富裕層の数は約14万人と、5.4%も増加。急激に格差が拡大しているのです。

新自由主義の最大の問題はそれが生み出す格差。新自由主義は競争力や能力主義を主張することによって格差を肯定しているために、新自由主義を続ける限り格差の拡大は続きます。格差が広がり貧困層が増えることで、国内需要が低下して景気後退となる。現在のスペインはナバロが「経済の自殺」と呼ぶ状況に陥っています。

この競争力に関して著者たちは、「より競争力があるという概念は、輸出増加のために競争相手よりも低い価格で商品を売ることができることである、ということはすでに述べた。しかし、そうであるならば、すべての国々が同時に競争力を持つことは不可能なのは明らかだ。ある国にとっての輸出はある国にとっての輸入なのだから、すべての国が輸入よりも輸出を大きくすることはできない」と、すべてに競争力を求める新自由主義陣営の主張が非現実的であることを指摘しています。このことは私たち人間にも当てはまり、すべての人が競争力を持つことはできないわけで、新自由主義が私たちにもたらすのは「最小限へ向かう競争」。この道を進んでいけば、椅子取りゲームの椅子の数がますます少なくなる中で、終わりのない競争を強いられるということが予測できます。こうした現実を認識した上で、もっと違う社会モデルを目指そうと考える人が出てくるのは至極当たり前のことではないでしょうか?

さらには、反グローバリゼーション運動の隆盛から10年以上が経過して、当時の「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンが本当であること、つまり新自由主義以外の方法によって国家を構築して、運営することが可能であることが、チャベスのベネズエラ、コレアのエクアドル、モラレスのボリビアといったラテンアメリカの左派政権によって実証されています。キューバのカストロ、ベネズエラのチャベスを筆頭に新自由主義と決別して「もうひとつの道」を模索する左派指導者に対して、マスメディアが容赦ないネガティブキャンペーンを行うのも、「オルタナティブはない」という口実を用いるためには「オルタナティブが存在してはならない」からにほかなりません。

チャベス大統領が亡くなって間もない頃に、彼の功績を振り返る独立系テレビ討論会に参加していた駐スペインニカラグア大使の「ラテンアメリカは大きく変わりました。もう以前のラテンアメリカではありません。しかし、そのことを知らない、あるいは知ろうとしない人たちがたくさんいるのです」という発言がとても印象に残っています。そのことは、ウィキリークスのアサンジ氏とスノーデン氏の亡命をめぐる一連の出来事で、誰の目にも明らかになりました。新自由主義は「オルタナティブはない」として、異なる意見や批判を一切認めませんが、政治的意思があれば「もうひとつの道」は十分に実現可能なのです。

新自由主義がもたらした結果に苦しむスペインでも、新自由主義と決別して、新たな社会モデルの構築を目指すさまざまな試みが始まっています。その中の一つの例として、私が住むカタルーニャの状況をご紹介しておきましょう。

カタルーニャの主権問題と独立の動きに関しては、昨年11月にマス州大統領率いる第一党のCiU(集中と統一)党が主権をめぐる州民投票を争点にして前倒し選挙を実施したことから、ご存知の方も多いかと思います。現在のカタルーニャでは独立、つまり、新国家の設立を社会変革のチャンスとしようという動きが始まっています。これは「PROCÉS CONSTITUYENT(憲法制定プロセス)」と名づけられたイニシアチブで、カタルーニャの15M運動の支援者であり、「非成長(Decreixement)」型の経済を提唱する経済学者アルカディ・オリベレスと、2009年にA型インフルエンザウイルスのワクチンのボイコットを呼びかけたことで有名になった医学博士でベネディクトス修道会の修道女テレザ・フォルカダスが始めたものです。

スペインでは、社会の改革において市民が極めて重要な役割を果たしてきました。たとえば、脱中央集権化、男女平等、農業改革、国家非宗教化、無料公教育といった根本的な政治・社会改革を目指した第二共和政の実現も、労働組合として組織化された市民の支えがあったからですし、徴兵制の廃止が実現したのも、兵役拒否という市民的不服従を貫いた市民の闘いがあったからこそ。このように、スペインには通りから政治を変えて行く伝統があったのですが、民主化後の大政党制によって政治家が政治を独占することになり、市民の政治への参加が制限されてしまったのです。言ってみれば、15M運動も、政治を「政治家」という政治のプロと見なされる人々に任せるとロクなことにならないと気がついた人々が、「政治家」や「銀行家」に象徴される一部の人々に独占されてしまった政治を、自分たちの手に取り戻そうとする試みでした。

自分たちがやろうとしているのは「15M運動がならした大地に種を蒔く」ことだフォルカダスが表現したように、長年市民運動に関わってきて、その力を誰よりもよく理解している二人は、市民が深く関わる方法で独立の問題を進めることによって、政治を市民の手に取り戻そうとしています。一つの目標に向けて政党と市民運動が協力し合い、議会と通りという二つの方向から改革を進めていく。その目標の実現のために、二人は4月にマニフェストを発表し、署名を呼びかけるところから始めました。

そのマニフェストの中に謳われた具体的な目標は次の通りです。

  1. 民間銀行の接収、倫理的な公的銀行を護り、金融投機にブレーキをかけ、公正な課税制度を創設、債務の監査を行い、不当債務の支払いを拒否する。
  2. 賃金と年金の額を人間らしい生活ができるレベルに保ち、解雇に反対、労働時間を削減し、家事や介護など対価が支払われない仕事を含む、すべての仕事を分け合う。
  3. 参加型の民主主義を実践し、選挙法を改正、選挙で選ばれる職務をコントロールし、政治家特権を撤廃と汚職の撲滅を目指す。
  4. すべての人々にまともな住居を用意し、ローン滞納による立ち退きの猶予、遡及性のある責任財産限定型ローンを実現する。
  5. 民営化に反対、すべての削減を見直し、社会的コントロールのもとの公的分野を強化する。
  6. 身体に対する権利を護り、ジェンダーの暴力に反対する。
  7. エコロジーな経済へと再転換し、エネルギー関連企業の接収・社会化し、食糧主権を護る。.
  8. あらゆる人々に市民権を与え、レイシズムに反対し、移民法を廃止する。
  9. 民主的にコントロールされた公的マスメディア、自由な番組編成とネットワークを構築し、文化の脱商品化を行う。.
  10. 国際的な連帯を進め、戦争に反対、軍隊を持たず、NATOに不参加のカタルーニャを目指す。

ちなみに、1について最近大きな前進がありました。6月末にカタルーニャのバダロナ市がスペインの自治体としては初めて、市民監査に基づき民間銀行に対する債務の一部約3100万ユーロを不当債務であると認めたのです。

不当債務という概念は1990年末に始まった「ジュビリー2000債務帳消しキャンペーン」によって、途上国の債務問題を解決する手段として国際的に知られるようになりましたが、この動きはスペインでは債務取り消しの是非を問う国民投票の実施にまで発展していました。

きっかけは、1998年10月末にハイチを襲ったハリケーン・ミッチ。この大災害によって、ハイチの貧困の状況が明らかになったことで、IMFや世界銀行が進める発展途上国支援の方法の問題点が白日のもとにされされ、カタルーニャのハイチを支援する市民運動の中から対外債務の問題を考える動きが生まれて、そこから1999年3月に市民プラットフォームADEU(Abolició del deute extern usurer)が発足します。これが国外からのジュビリー2000キャンペーンや1999年11月末にシアトルで行われた世界貿易機関(WTO)閣僚会議に対する反対運動といった、反グローバリゼーション運動の影響を受けながら拡大していき、2000年3月に市民の手によって債務取り消しの是非を問う国民投票が実施され、スペイン全土で100万人(カタルーニャで50万人)以上が参加しました。何の拘束力もない市民投票でしたが、マスコミに取り上げられるほどの大きな動きとなった結果、この運動に絡んで「不当債務」について取り上げる番組が放送されるなど、「不当債務」という概念の普及に大きな効果があったと、当時の関係者の一人は語っています。そして、この動きの中心にいた知識人の一人がオリベレスでした。

このマニフェストを核として、彼らが計画している具体的な目標は二つ。一つは既存の左派政党を巻き込んだ左派統一戦線を結成して、次のカタルーニャ州議会選挙に挑むこと。もう一つは、破綻している現在の経済、制度、政治モデルに代わる、新たなモデルに基づいた国家創設の基礎となる憲法案を作成すること。つまり、市民が自分たちでどんな社会に住みたいかを考えて、その社会のモデルを実現させるための憲法を作成し、それに賛同する政治家を議会に送り込むというのが彼らの計画なのです。現在までに各地で150回を超える説明会を行って地区集会を組織し、四万人以上(カタルーニャの人口は約700万人)が賛同の署名をしています。新憲法制定から社会変革を行うという計画は、ベネズエラが始め、エクアドルやボリビアがその後に続いたボリバル革命のモデルを彷彿させます。

著者の一人でカタルーニャ出身のナバロは、もともとは独立支持者ではなかったのですが、このイニシアチブに賛同して、自らが説明会のスピーカーとなって「下からの改革」を通じて「もうひとつの道」を実現しようと訴えています。「『ブルジョワ階級と労働者階級』を、『上流、中流、下流』と呼び変えているが、かつての階級制度が消えたわけではない。『あなたは上流、中流、下流?』と問われれば、ほとんどの人は『中流』と答えるだろう。だからといって労働者階級が消えたわけではないのだ。私たちは下からの改革を行わなければならない。そうしなければ、彼らが上からの改革を行ってしまうだろう。彼らが私たちに夢を見させないのなら、私たちは彼らを眠らせないまでだ」。

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日本でも自民党安倍政権が、サッチャー元英首相にならって「There is no alternative(オルタナティブはない)」として、アベノミックスという名の新自由主義政策を推し進めようとしているようですが、サッチャーの時代から世界は大きく変わりました。今や、世界中で新自由主義を批判する視点が共有され、「もうひとつの道」を選ぶ人々は日増しに増えています。とりわけ、新自由主義の発信地、米英語圏とは異なる文化圏に属するスペイン語圏では、競争より連帯という価値観の下で、新しい道を切り開らく試みが広がっています。

「オルタナティブはある」と断言するナバロ、トーレス、ガルソンの確信と希望に溢れるメッセージを、本書を通じて一人でも多くの読者の方と共有できたら、訳者の一人としては嬉しい限りです。

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なお、翻訳は、郷吾健二さん(「日本語版へのまえがき」~「はじめに」)、海老原弘子(第1章~第6章)、広田裕之さん(第7章~第10章)の三人が分担して行いました。また、郷吾健二さんには経済用語などについてのチェックをお願いしました。さらに、ATTAC・JAPAN(首都圏)で、編集作業と出版の手配をしていただきました。

2013年7月 海老原弘子