マヌ・チャオが語るチェとキューバ-5

LJ-君は今までにたくさんのバンドを組んできたけれど、最も良く知られているのはMano Negraマノ・ネグラ、そしてRadio Bembaラジオ・ベンバ、現在のRadio Bemba Sound Systemラジ オ・ベンバ・サウンド・システムだよね。この3つのバンドの共通点と相違点は何?

MC-違う点は、それぞれのバンドには異なる人間がいたところ。共通点はエネルギーだね。ステージで最後まで最初と変わらないパワーで演奏するバンドなんだ。

LJ-君にとって彼らバンドのミュージシャンたちは…

MC-僕の家族だよ。僕たちの間には特別な信頼関係がある。それぞれが自分の役割を完璧に理解していて、他のメンバーのことを深く信用している。僕たちは一致団結しているんだ。これはとんでもなく幸運なことだよ。まあ、幸運なだけではなく、このバンドで何年もやってきているからだけど。ぱっと結成したバンドじゃないからね。年月とともに磨かれてきたんだ。その時期の音楽シーンで一番いいミュージシャンを集めてバンドを組んでも駄目なんだよ。最初に友情があって次が音楽の知識、つまり音楽を知ってる友達か友達に僕たちと一緒に音楽を学んでいくチャンスを与えるってこと。ラジオ・ベンバはあっちこっちに姿を表すバンドだけど、たくさんの人たちにとっては音楽の学校でもあったし、これからもそうだろうと考えているんだ。これは僕の誇りだね。2、3年ここで過ごして、ここで学んだものを身に着けて立ち去り、自分のバンドを組むって人がいるってことを、僕は誇りにしているんだ。

LJ-今回のコンサートには、新顔のミュージシャンが一緒に来ているね。スペインのグループFesticultoresフェスティクルトレスのメンバーたち。

MC-実は今まで一緒に演奏したことがなかったんだ。でも、むこうのフェスで演奏しているのを何度か目にしていたから、こっちに演奏に来ても音楽的な問題は何もないだろうとわかっていたんだよ。完全な信頼関係があるっていう、こう僕はいうのが大好きなんだよ。何かが自然に生まれてくるのは、物事が健やかに進んでいて、エネルギーが清らかだってことだからね。

LJ-今準備中のCDは?

MC-完成している2枚がもう発表されているよ。1枚はアルゼンチン人グループのラジオLa Colifataラ・コリファタと一緒にレコーディングしたんもの。彼らは精神科病院から放送しているんだけど、そのラジオは病院の患者が運営しているんだ。これはインターネットのサイトでしか発表していない。そのサイトはvivalacolifata.orgで、彼らたちの意向で無料でダウンロードすることができる[1]。あとはマリにも行ったよ。かつてあるカップルのアルバムをプロデュースしたことがあって、その二人のアーティストは盲目の夫婦なんだ[2]。4年前に彼らのアルバム製作のために滞在したから、彼らが住んでる地域は僕にとって自分の家みたいなものなんだ。ちょうど彼らの息子のアルバムのプロデュースしたところ。彼はサムという名前でバンド名はSMOD、もうすぐ発売になるよ。こうした旅の道中で書いた歌が何千とあるから、どっかでレコーディングしなければならないんだけど、今のところ旅を止められないんだ。でも、ここ数日演奏している歌をレコーディングしたいのは山々さ。

今回のキューバへはMadjidマジッドと僕だけで来たから、二人のときはいつもやるように、酒場で演奏するような歌やルンバを演奏している。僕たちにはLos Musicariosロス・ムシカリオス、los asesinos de rumbaロス・アセシノス・デ・ルンバ、lo peor de la rumbaロ・ペオル・デ・ラ・ルンバと呼んでるバンドがあって、まあ僕たちのことなんだけど。こうした曲を近いうちにレコーディングしたいと思っているんだ。

LJ-後で作品に使うために、旅先で印象に残った音を録音するって本当?

MC-昔はよくやっていたよ。特に『Clandestinosクランデスティーノ』の準備期間だった数年の間、ちょっと行き先を見失った感じでラテンアメリカ中を旅していたときにね。この先自分の人生で何をするのかよく分からなかったんだ。率直に言って新しいアルバムをレコーディングすることは考えていなかったから、自分のために音を録音したんだよ。聴いたり、声やギターを載せたりするためにね。人に聞かせるための作品というよりは、個人的なテラピーだったんだ。こうやって長い間、音、周りの音を録音することを続けた。今も続けてるのは、こういう方法で歌を作るのは本当に素晴らしいことだから。ある環境の中にはめ込むとと、とってもしっかりとした歌ができるからね。(つづく)

[1] このプロジェクトについての詳細はこちらを参照ください。

[2] Amadou & Mariamのことです。

このときキューバで行われたコンサートの模様です。

マヌ・チャオが語るチェとキューバ-4

LJ-君のキャラクターを特徴づけているものの一つが、ステージの上で発するエネルギーだよね…。

MC-若い頃は、観察する方の立場だったんだ。パーティを計画するのは友達で、僕は注目の的になるのが嫌でしょうがなかった。いつも一番暗い隅っこで回りを観ながら「どうか僕を踊らせようとする人がいませんように」って思っていた。今はどこに行っても誰もが僕を見る。もう慣れたけど、自分にとって自然なことではないんだ。だから、コンサートの前っていうのは、それがどこであっても、僕に重くのしかかってくるんだ。この感じはいつでも僕につきまとってる。今だってあんまりいい気持ちじゃないよ。緊張して不安でしょうがない。この状況をを変えるためだったら、世界中の黄金をあげたっていい。それで(コンサートをやらなくてすむのなら)今夜は河に釣りに行くことにするだろうね。ところが、その後でショーが始まって、自分がステージに上がる瞬間になると幸せを感じて、ショーの後は最高に幸せな気分になるんだよ。

ショーでいい思いをする分の代償を全部ショーの前に支払っているってことだよね。人 生においては全て収支が合うようになっている。こうしたことを受け止め、平静になってパワーを得るために、いろいろ努力しているよ。コンサートの一時間前に社交的に振舞うのは大変なことだけど、何度も自分に繰り返すんだ。「恥ずかしくても死なない」って。ショーの前に静かに通りを歩いてる僕を見た後で、ステージに上がった僕を見ても、僕だとわからない人がたくさんいるよ。「同じ人間じゃない」って言うんだ。もちろん同一人物だよ。だけど、異なる瞬間にいるんだ。ステージに踏み出す第一歩がアドレナリンに変わる。僕の持論は、ステージ上でのエネルギーは全て、ステージに上がる前に感じる恐怖から来ているっていうものなんだ。

LJ-歌を作るのは、好きになれないものを見たときに、君の 『怒り』を吐き出すためだって…。

MC-いつもそうだよ。個人的な小さなテラピーなんだ。気に入らないことを見たときに書くことが多いね。これがエゴイズムなのかどうかわからないけど、小さな幸せを感じている瞬間には書きたい気持ちにならない。その幸せを生きてそれで終わりさ。何か僕を不幸にするものや悔しい思いをさせるもの、例えばこの世界がどう動いているとか、そうしたことがあるとき、僕はそれを文章にして、外に吐き出す必要があるんだ。これは僕の人生において救命胴衣みたいなものなんだよ。

LJ-何かに心を動かされたときにも書く?

MC-うん。でも、改善の余地があるようなことに心を動かされたときに書くことが多いね。例えば愛に心を動かされたときよりも、不当なことを目にしたときだよ。僕にはラブ・ソングもあるけど、それは失われた愛の歌なんだ。「La Despedida(別れ)」は壊れた愛の歌で、書いたのはその女の子との別れから立ち直ったときなんだ。(歌が)喜びから出てくるのもいいことだよ。喜びを扱い、喜びを表現するアーティストもいて、僕たちもある意味では同じだ。歌詞ではないけど、音楽で喜びを扱っているからね。歌詞はもう少し悲しいもので、僕たちはこの二つを混ぜ合わせる。そこから、”malegría”マラグリア(mal不幸とalegria喜びを合わせた造語)が出てくるってわけさ。僕の歌の中にあるちょっと悲しい歌詞とそれを包む音楽の喜び。

LJ-ライブCD&DVDの Baioaneraバイオアネラが11月に発売の予定だけど、この発売後はどういう計画になっているの?

MC-僕たちはいつも短期の計画しか立てないんだ。今年については、11月にアルゼンチンとチリに行くことになってる。まもなくフランスのバイヨンヌでやったコンサートのライブCDが発売になるよ。バンドはとてもいい調子で、今一ヶ月のフランスツアーから戻ってき たところなんだ。9月の一ヶ月間は全力疾走だったよ。観客の盛り上がりは尋常じゃなかったし、僕たちが一致団結して演奏するこのバンドは友情に溢れてるし、もう何年も一緒にやってきたから強い結束力があるんだ。僕はとっても幸せさ。(つづく)

BaioaneraのDVDに収録されている映像から、マヌのパワーがよく表れている一曲ご紹介しておきます。

マヌ・チャオが語るチェとキューバ-3

LJ-キューバにやって来て、こちらの人々との関係はどう?

MC-人々との触れ合いはとても美しいものだよ。それがハバナだろうが、とても家族的な雰囲気のエル・メフンヘだろうともね。今やりたいのは、バンドのメンバー全員と一緒に一刻も早くここに戻ってくること。ルンバ[1]もいいから、みんなに気に入ってもらえることを願っているけど、バンド全員で戻ってきたくてしょうがないよ。ハバナやキューバの他の場所を回って、3時間のステージをやるためにね。サウンド・チェックの間に若い子たちに会ったんだけど、このコンサートのために100キロも旅してきたって言うんだから、本当に可愛いよね。実際、とっても美しい人々との触れ合いがあったから、もっとたくさんお返しするために、バンドと一緒に戻ってきたいと思っている。

LJ-今までラテンアメリカのさまざまな場所で暮らしてきたけど、 キューバに一定期間住もうと思ったことはないの?

MC-ここに来るたびにそれを考えるよ。ミュージシャンをのぞいて、この人生でなれたらいいなと思っているものの一つが医者で、医学を学びたいんだ。そのために世界で最良の場所はキューバだよ。この一週間人生の選択肢の一つとして、このことを考えていた。人々を治療することを学びたいから、世界中で先生を探している。もう少し時間が必要だけど、いつの日かそれを決断するつもりだ。そしてこの一週間、いい先生を見つけるのに世界で最良の場所はどこかを考えていた。それはキューバ。なぜなら、ここではさらに音楽の先生も見つかるから。キューバ人は全員音楽の先生さ。

LJ-想像してみてよ。何年後かに、君の診療所に入ってきた人が言う。「あなたのCDは全部持ってますよ」って…。

MC-多分診療所で治療することはないだろうな。今と同じようにその辺をふらふらしていて、たどり着いたところで人を治療することになると思う。診療所にいる自分は想像できないな。想像できるのは、ギターと治療の知識を携えて歩く自分の姿だよ。痛みを取り除いてあげることは、人にしてあげられる最高のプレゼントだからね。本当に素晴らしいことだと思う。少しずつ勉強していて、和らげてあげることができるようになった痛みもあるけど、まだまだ道は長いね。

キューバに関して僕に足りないのは、本当はもっと長い期間滞在したいんだ。いつもコンサートをしたり、一週間程度過ごしにくるばかりだから。キューバをより良く、もっと奥深くまで理解するためには6ヶ月かかるって言うけど、そこに至るまでにはまだまだ時間が足りていない。

LJ-今回の旅には、長い間共に仕事をしてきた画家Jacek Wozniakヤセク・ワォズニャックが一緒だよね。つまりチェへオマージュとして捧げるのは、コンサートだけではなく、造形芸術もってこと…。

MC-一番最初、僕の代理人のホルヘからこの日のために来るっていう話を聞いたとき、まだコンサートの話はなかったんだ。そのとき僕はワォズニャックと一緒にいたから、最初に考えたのが二人で行って一緒に絵を書くことだった。なぜなら僕たちは一緒に展覧会をするんだよ。ワォズニャックはよく僕の家に絵を描きに来るんだ。僕が住んでいるのは作業所みたいなところで、たくさんスペースがあるからね。 初めて一緒にした仕事がSiberie m’etait contée[2]の本だ。その頃、何年も前からほったらかしにしていた文章がたくさんあった。若い頃にフランス語で書いたもので、自分にとっては失敗作の歌だった。ある日彼がスタジオにやってきてこれを全部読み始め、僕に持って帰っていいかってきくんだ。それから一週間後に戻ってくると、それぞれの文書に絵がついていた。そのとき、僕がダメだと思っていた文章が、彼の絵を一緒になったとたんに上手く回りだしたんだよ。それでこの本を作ることを決めた。彼が僕の文章に絵を描いて、一緒に一つの職業を学ぶことになった。一年に渡る作業を通じて、本の作り方を学んだんだ。全部自分たちでやったからね。文章を書く、絵を描く、見本版を作る、紙を探す、印刷所に行く。とても美しい経験だったよ。

そのあとも、彼は絵を描きに僕の家を訪れ続けた。そしてある日、僕の心にナイフを突き立てた。「今度は、君が僕の絵の上に文字を書いてくれ。」って僕に言うんだ。絵を描くのに何ヶ月かかったとかいう問題でなく、Photoshopで作業すること、つまり上手く行かなかったとしても、消すことができるから大丈夫というのと、二度と消すことができない絵の上に文字を書くというのは、全く話が違う。僕にはなんの技術もないんだから。でもあまりにもしつこいから、ついにある日僕は彼の絵の上に落書きを始めたんだ。そこから今やっている展覧会が始まった。マヌとワォズニャクだからManwozマンワォズ。図書館や誰もが見ることができるオープン・スペースで展示したんだ。いつかここに持って来られることを願っているよ。夢の一つだね。(つづく)

[1]アコースティック・バージョンでの演奏のこと。

[2]この本についてはラジオチャンゴJPのnahokoさんが作成したこちらのサイトを参照ください。

Siberie m’etait contéeに付属のCDに収録されている「Sibérie fleuve amour 」です。

マヌ・チャオが語るチェとキューバ-2

La Jiribilla(以下LJ)-今回君がキューバで参加した二つのコンサートはチェへのオマージュだった。今までに何回かチェについては生まれたときから、世界的な左派のリーダーだという以上のことを知っているとコメントしているよね。マヌ・チャオという個人にとって、チェって何?

マヌ・チャオ(以下MC)-マノ・ネグラの持ち歌の中にあるフレーズで描写できるような人間の実例だね。”entre lo dicho y lo hecho, el camino es derecho(言ったこととやったことの間、道はまっすぐだ)”ってやつ。つまり、彼はいつでも考えたとおりに行動したってことなんだけど、こういう人間はほとんどいない。実際の彼を知らないけど、行動が思想と同じレベルにあったと感じさせるんだ。彼についてはいろいろ読んだよ。物凄く強力なシンボルだ。ヨーロッパでは、つねに若さや青春の象徴で、ロックの場にはいつもチェがいた。もう一人の兄弟みたいなものさ。チェは世界レベルで知られている。アフリカに行ったとき、マリで仕事をするためだったんだけど、 ちっぽけな村にでも、そこの人々がチェについて話してくるんだ。ラテンアメリカと関係あるってわかるから、すぐにチェのことを話してくる。「彼は僕たちのために闘った」って。

LJ-それでキューバに来ると、今度は人々が神話としてのチェではなく、人間としてのチェのことを君に話してくるんだ?

MC-だからこそ、記念博物館を訪れたのは強烈な体験だった。彼の持ち物や身の回りのもの、時計やマテ茶の器といった細々としたものを見たときには、心が震えたよ。遺骨の前で感じたのは尊敬の念だったけど、博物館で彼の人間としての側面を表すものを前にしたときは、深い感動をおぼえたよ。

LJ-家ではボーラ・デ・ニエベを良く聴いていて、それからlos Van Van ロス・バン・バンやEliades Ochoaエリ アデス・オチョアと来たって言ってたけど、チェと音楽の以外に君をキューバに結び付ける理由はなんだろう?

MC-最も強力なものはチェと音楽だよ。子供時代からの最も強く僕をキューバに結び付けているものはボーラ・デ・ニエベで、これは僕の人格形成から絶対に取り除くことができない。48歳になっても、僕の人生にとって非常に重要なものだ。彼の音楽が僕にとって、最初の先生で最初の音楽のヒーローなんだから。

LJ-カルペンティエル[1]が君のお父さんのラモンに贈ったのが、君の人生最初のマラカスだった…

MC-僕にちなんだカルペンティエルのちょっとした逸話があるよ。父が数年前に話してくれたんだ。よく憶えてないんだけど、確かカルペンティエルが父に僕がミュージシャンになるだろうって言ったとかなんとか。彼が僕の将来を家族に予告したんだ。

LJ-ちょっと前に君が参加したフランス共産党新聞ルマニテ祭では、キューバに関連するさまざまな催しが行われていたと思うけど、ヨーロッパにおいて私たちの国キューバのイメージはどんなものだと思う?

MC-いつくかのレベルがあるよ。僕たちのライブに来るような 人々のレベルではポジティブなイメージ。問題はマスコミなんだ。彼らが描きたいと思っているキューバの姿ときたら、それはそれはひどいもので、あんなのは情報でも、ジャーナリズムでもない。正真正銘の反キューバのプロパガンダだよ。新自由主義陣営の大手マスコミがどんなものかは、君も知ってるだろう? 君を叩いて叩いて叩き潰す。絶え間なくキューバは独裁国家だという見解を繰り返す。キューバの悪い点ばかり話して、キューバが教育や医療において成し遂げたことについては決して語ろうとしない。明らかに成果を上げているというのに、それについては一言もない。

つまり、毎日の仕事はそのプロパガンダを解体すること。だから、向こう(ヨーロッパ)でインタビューを受けるときはいつも、そういう質問に答えたり、そういう質問をされるように仕向けたりする。こんな状態は公正ではないからね。キューバがラテンアメリカの悪魔であるかのように、大手マスコミが取り上げているのを見ると、腸が煮えくりかえる思いがするよ。

キューバやこの地域のほかの国々をを旅行した人間なら誰もがわかる。 先日も「僕が地獄を見るのはキューバの中ではなく他の国々の中で、キューバ以外の国の方に、もっと困難な状況やとても容認できないような暴力の姿を見る。」とコメントした。闘争はそこにある。情報のバランスを修正するということ。とにかく、キューバについて異なる情報を発信している人々はたくさんいるんだけど、マスメディアが問題なんだよ。

LJ-旧大陸(ヨーロッパ)でキューバの文化はどのように受け止められているの?

MC-キューバのミュージシャンは素晴らしい大使だよ。 キューバについてだいたいのことを知っていて、現状から取り残されないようにいつも情報を探している人たちもいるけど、それ以外の多くの人々は、Buena Vista Social Clubブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの映画に感化されたんだ。この映画は、ヨーロッパ全土で民衆レベルまで強烈に浸透した。大陸の果ての寒村までだよ。どちらかというと映画よりも音楽がよく耳にされた。フランスの忘れ去られたようなちっぽけな村に行っても、こうした曲のどれかを歌うと、みんな一緒に歌いだすんだ。もうキューバのフォークロレの一部になっているみたいだね。あらゆる階層、あらゆる年代の人々の心に届くんだ。これがきっかけで、たくさんの人がキューバの音楽に興味を持って、他のグループを知るようになったんだよ。(つづく)

[1] キューバの作家Alejo Carpentierアレホ・カルピンティエルのこと。ラモン同様ジャーナリズムの出身で、二人は親友だった。

ここでBuena Vista Social Clubが演奏している曲は、Carlos Pueblaカルロス・プエブロの手による『Hasta Siempre Commandante Che Guevara』。チェをテーマにした最もポピュラーな歌です。

※本当はこの記事は金曜日にアップする予定でいたのですが、14日がチェの誕生日だったことを思い出したので急遽更新しました。

マヌ・チャオが語るチェとキューバ-1

エルネスト・チェ・ゲバラ。このキューバ革命の英雄は、日本では主に歴史上の人物、つまり過去の人として語られますが、ラモン本の中では私たちに未来を示す存在として描かれています。このように、日本ではゲバラと呼ばれる人物は、スペイン語圏ではチェと呼ばれ、未来に繋がる人物として語られることがあるのです。死後40年以上も経つというのに、一部の人々の間ではまるで現存するリーダーのような存在感を保っているチェ。その理由はどこにあるのでしょう。

ラモンはこの著作の最後で読者に対して「自分の子供たちにチェの話をしてください」と語りかけます。ラモン自身が語るチェの物語で育った息子の一人でミュージシャンのマヌ・チャオの言葉から、未来への人物としてのチェの姿を探ってみたいと思います。

このインタビューは、マヌが2009年10月にチェへのオマージュのコンサートに参加するためにキューバを訪れた際に、同地の文化雑誌La Jiribillaラ・ヒリビジャが行ったものです。A4にして10枚を越えるロング・インタビューなので、何回かに分けてアップしていこうと思っています。今のところ毎週金曜日更新予定。どうぞ、お楽しみください!!

 

 

マヌ・チャオインタビュー「文化とは自由だ」

Yinett Polanco y R. A. Hernández • La Habana / Fotos: La Jiribilla

ラ・ヒリビジャ特別記事-チェに捧げるライブ

現在は、このまま資本主義の社会が続いていったら、地球が終わることに気がついている人ががたくさんいる。ますます多くの人が、日常生活を変えて、自然の法則にもっと適した方法で生活しようしているんだ。希望はそこにあるよ。

キューバという言葉は、人生を通じて彼から離れることはなかったにもかかわらず、マヌ・チャオが初めてキューバ島の土を踏んだのは、今から17年前Cargo Tour 92のツアーでのことだ。そのときは、カール・マルクス劇場に出演した。それからというもの、このフランス-スペイン国籍のミュージシャンは、定期的にこの島に戻ってくる。まるで彼にとっては必要不可欠なことみたいに。この島は、ジャーナリストで作家の父親ラモン・チャオが小さいときからいろいろな話を聞かせてくれた島であり、彼の最初の音楽のヒーローBola de Nieveボーラ・デ・ニエベの生まれ故郷であり、いつも彼の家にいた友人Alejo Carpentierアレホ・カルペンティエルの土地である。そしてなによりも、闘争の場において最も偉大なシンボルの一つel Cheエル・チェの土地なのだ。今年マヌ・チャオがキューバに戻ってきたのは、ハバナとサンタ・クララでライブを行って、ゲリラ戦士で革命のリーダーであるキューバ-アルゼンチン人へのオマージュを捧げるために他ならない。

1961年にパリで生まれたJosé-Manuel Thomas Arthur Chaoホセ-マヌエル・トマス・アルチュール・チャオは、フランス語・スペイン語圏で最も有名な進化し続けるミュージシャンの一人だ。この多作で多言語を操るシンガーソングライターは、大手のマスコミから離れたところで、現代の問題を受け止め、批判しながら音楽活動を行っている。社会的な懸念が詰まった歌詞と、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アフリカからの様々なリズムの幅広いコンビネーションから生み出す音楽。Clandestino (1998)、Próxima estación esperanza (2001)、Radio Bemba Sound System (2002) 、Siberie m’etait contée (2004)、La radiolina (2007) y Baionarena (2009)といった広く知られた彼のアルバムは何百万枚という単位で売り上げている。

元Mano Negraマノ・ネグラで、2006年にハバナの反帝国主義競技場において誰もの記憶に残るライブを行ったRadio Bemba Sound Systemラジオ・ベンバ・サウンド・システムを数年前から率いるマヌ。彼のキャリアの中で最も良く知られているこの二つのバンドは、「ステージで最後まで最初と変わらぬパワーで演奏する二つのバンド」だ。彼は巨大なスタジアムでも、小さな箱での即興ライブでも同じように感情一杯に歌うが、プライベートの彼は素朴でむしろ内気だと言える。

そんなマヌの今回の旅に、ラ・ヒリビジャが二日間に渡って同行した。その合間の会話の中で、音楽についての思い、キューバで医学を学びたいという願い、不穏であると同時に熱い今の時代についての考え、そして「理想を求めながら」この道を進む彼に寄り添っている確信について語ってくれた。この道は、私たちに答えよりも問いの方を多く投げかけるのだが。「いつなんだろう?」「いつなんだろう?」「太陽はどこから顔を出すのだろう?」(つづく)

最後に引用されているのは、CLANDESTINO に収録されている「Luna y Sol」です。歌詞はこちらを参照ください。